窓を開けているのに風はなく、室内は妙に静かだった。
時折、小鳥が囀る以外は、書類を繰る音しか聞こえない。
互いの息遣いやら衣擦れやらは、耳に届くか届かないかの瀬戸際で。
単調作業に飽き飽きして、欠伸をこっそり噛み殺した。
─誰が為のお仕事─
「なあ、花白」
ざっと目を通し終えた書類に、ポン、と判を押しながら。
何気なく呼べば、何だよと声が返る。
どことなく不機嫌そうに聞こえるのは、この単調作業に厭きたせいだろう。
頬杖をついて、半ば目を閉じて。見るからに詰まらなそうな空気を纏っている。
「この仕事が終わったらさ、」
と、今日中に終わるのか不安になるような書類の山を前に、こっそり溜息をついたりして。
訝しげな視線を投げる花白に向かって、終わったらの話だけど、と笑って見せて。
「どっか遊びに行かない?」
こんな台詞、タイチョーがいたらとてもじゃないけど言えない。
言うけど。
生憎とタイチョーはあの人に呼ばれて席を外していた。
キョトンと真ん丸に見張られた目。
書類を繰る手も止まってしまって、未処理の紙切れを掴んだまま、宙ぶらりん。
「……いいよ」
「そうだよなーやっぱ駄目……って、あれ?」
予想外の返事に、らしくないけど戸惑った。
絶対に、断られると思っていたのに。
今、何て言った? なんて間抜けな問いに、呆れた顔をしながらも、
「いいよ、って。たまには付き合ってあげても、いいかなって」
でも、要らないなら別にいい。
そう言って、不貞腐れたように口をへの字に曲げた。
要らないなんて、そんなこと言うはずもないのに。
ちょっとだけ、本当にほんの少し、驚いてしまっただけなのに。
「……どこ、行きたい?」
「どこでも」
「そう言わずにさ」
書類を脇に押しやって、身を乗り出して問い掛ける。
嬉しくて、こそばゆいようで、なんだか楽しい。
花白の目が面倒だと言わんばかりの光を宿す。
やれやれと大きな溜息を吐いて、紡がれた言葉は。
「あんたと行けるなら、どこだっていいよ」
ちゃんと、連れてってくれるなら、どこへでも。
今回だけは、あんたの気まぐれに付き合ってあげてもいい。
「それならそれで、とっとと仕事、終わらせなきゃいけないんだけどね」
捌き終えた書類の束を机の上でトントンと揃え、にっと意地悪く花白は笑った。
ばさり、と置いた山の書類。
その天辺に、ドン、と判を押す。朱色に輝く『済』の文字。
「早くしないと僕の方が先に終わっちゃうけど?」
指摘されて、初めて気付く。書類の山の嵩の差に。
俺の分はまだまだあって、対する花白は、その半分以下。
始めたときは同じくらいの分量だったはず。
……いつの間に……。
「……なあ、花白」
「手伝わないからね」
「ええー」
「無駄口叩いてるのが悪いんだろ」
そう言いながら、俺の分の仕事を一掴み、ごそっと攫って行ってくれる。
これ以上は御免だからね、と釘を刺すことは忘れない。
不器用な優しさが嬉しくて、愛らしくて、思わず零れた笑み。
「……何にやけてんだよ。やる気あんの?」
「ある。あるあるあります! だから書類戻すなって……!」
やっとの思いで仕事を片付けたのは、街が夕日に染まる頃。
先に終えていた花白は、退屈そうにしながらも待っていてくれて。
うつらうつらと舟を漕ぎ、今にも眠ってしまいそうなその耳元で囁いた。
さて、目が覚めたらどこへ行こうか? 花白。
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