悲鳴を、聞いた気がした。
開け放った窓からは月が覗く。
蹴り飛ばしてしまった毛布に手を伸ばして、
じっとりとかいた額の汗を手のひらで拭った。
ふと漂ってくる鉄錆の臭い。
弾かれるように駆け出したのは、意識してでのことではなかった。
─白と赤。桜色─
鍵は掛かっていなかった。
破り壊さんばかりの勢いで、開け放った扉。
出迎えは噎せ返るほどの血臭と、ぱたぱたという軽い音。
窓越しの月明かりを反射して、透いた光が目を射抜く。
「花白っ!」
翻る刃を握り締め、華奢な身体を引き寄せた。
手のひらを裂く痛みを気に掛けるほどの余裕すらない。
滴る緋色が床を染める。
夜闇では、ただの黒い水溜りとしか映らないけれど。
「ダメだよ、花白」
人形に似た、硝子玉の目が俺を見る。
いつの間に跳ねたのか、白い頬に点々と赤い飛沫が散っていて。
拭ってやろうと指を這わせたら、紅く長く尾を引いた。
「……どうして……?」
ふるりと小さく震えるように、薄く開かれた唇。
零された言葉は弱々しく掠れて、今にも途切れてしまいそうだった。
「俺が、悲しいから」
じっと、その硝子玉を見詰めた。
深い水底に沈む心を、掬い上げたい一心で。
伸ばした腕は短いけれど、溺れてでも、届かせたくて。
「……かなしい、の……?」
「そうだよ。すっごく悲しい。だから、やめよ?」
ゆらゆらと揺れる、玻璃の水面。
苦しげに寄せられた眉根と、ほんの僅かに涙の浮いた眸。
「……うん、わかった。……ごめんね……」
言い終えた途端、ふっと身体から力が抜ける。
ことんと眠りに落ちた花白の、重みを両の腕で抱いた。
未だ血の止まらない細い手首に、強く手のひらを押し付ける。
花白は殺さずに済んだのに。
苛まれるのは、むしろ自分の方なのに。
「悲しいことも苦しいことも、もう何もないって思ってたのに」
今更のように感じた痛み。
合わせあった、傷と傷。
とうに血は止まっただろうけれど、剥がすのは酷く怖かった。
再び流れてしまう血と、与えてしまう痛み。
自分だけなら、こんなに苦しむこともなかったのに。
「どうして、おまえが……」
硬い音をたてて転がる剣。
乾き始めた血の臭い。
朝になる前に掃除しておいた方がいいよな、と他人事のようにぼんやり思った。
薄紅色の彼の花は、決して傷つけてはいけないのだと、
病気にとても弱いものだと、ちゃんと知っていたはずなのに。
気付いた時には手遅れで、ただ見守るしか出来ないのに。
大丈夫だよ。怖いものなんて、もうないから。
口にしたって、届かない。想うだけでは伝わらない。
でも、だったらどうしたらいいって言うの……?
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