怖い、と思った。
それは戦場の直中であっても覚えることの少ない感情で。
まして吹く風に容易く手折られそうな、
華奢な体躯の相手に抱くような代物ではない。

だのに、どうしようもなく怖かった。
その一途さが、恐ろしかった。










─涼やかなる頃─










音もなく、気配だけが近付いてくる。
大気が僅かに撓むような、ほんの微かな揺らぎ。
伏せた瞼を押し開けて、ゆるり廻らす視線が止まった。

ふわりと翻る白い翼が瞬く間に変化を遂げる。
人型へ転じたのを見届けて、険しい表情を浮かべてみせた。

「そうやって近付くの止めろって言ったよな」
「……救世主」

脳裏に甦る光景。
煌く刀身と断ち切られた淡い金糸。
翠色の眼を驚きに見開いて、それでも一歩も退かずに。
はらりと散った己の髪を、ただ呆然と目で追って。

危うくその細い喉首を掻き切られるところだったというのに、
恐れや怯えは欠片も窺えなかった。
迷いなく、ただ真っ直ぐに向かってくる。
どんなに邪険に扱おうとも、諦める気配は微塵もない。





「刻が、迫っているのです」
「……それで?」

悲しげに、困ったように、細い眉をきゅっと寄せる。
ちらりちらりと視界を掠める触れるだけで折れそうな細い指。
神経質に何度も組み替え、血の気が失せるほどの力を込めて。

「解って、いるのでしょう?」

今にも泣き出してしまいそうな、幼子のような頼りない表情。
見た目の儚さも手伝って、なけなしの良心がしくしくと痛んだ。
この感覚を罪悪感とでも呼ぶのだろうか。
まるで弱いもの苛めをしているかのような、妙な気分に陥った。





「今日明日のうちにどうこうなるようなことじゃないんだろ?」
「っそれは、」
「なら、もう少し待っててよ」

に、と口元で笑ってみせる。
腰に佩いた剣に触れ、柄の感触を確かめるように指の腹でゆっくりと撫ぜた。

「救世主、」
「この戦が終わったら、アンタの言う使命とやらを果たしてやるからさ」

だから、それまでは黙ってろよ。
言外にそう滲ませれば、ぐっと言葉を詰まらせる。
戸惑う視線がふらふらと泳ぎ、やがて瞼に覆われた。





泣くのかもしれないと思わせる、頼りない表情。
あるはずのない涙が頬を伝い流れていくような気さえする。
こんなにも弱々しく見えるというのに、この頑なさはどこから来るのか。
言い募ることこそしなかったが、翡翠色の双眸が何よりも強く訴えてくる。

「……その言葉、違えないで下さいね」

ひたとこちらを見据える光。
不安げな空気を纏いながらも凛と前を向き続ける。
その眼に、俺を映し続ける。

たとえ剣を向けられたとしても、この光が翳ることはないのだろう。
それを思うと恐ろしい。










死を厭わぬ者ほど、厄介な相手はいないのだから。











| | 一覧 | 目録 |