救世主様がどこにいらっしゃるか、ご存じないですか。

そう尋ねに来たのは、この女官で5人目だ。
血相を変えて、走って来たのか肩で息をして。
どこかで哀れに思いながらも、曖昧な笑みを浮かべてみせる。

さあ、知らないな。
どこにいるのだろうね、『救世主』は。










─彩城にて─










「行ってしまったよ」

背後に向けてそっと呟きを投げた。
すると椅子がカタンと動いて、机の陰から桜色が覗く。

恐る恐ると言った様子で扉を窺う紅い目が、
不安げにきょろきょろと彷徨った。
どれだけ耳を欹てても、もう足音すら聞こえないのに。

「いいのかい、こんな所で油を売って。今日は客人が来るんだろう?」

そっと桜色の頭に手を置いて、問いを零せば細い肩がびくと震える。
小さな小さな手がきゅっと握られ拳を作り、口をへの字に俯いた。
膝を折り、表情を覗き込むようにすれば、見上げる不安げな眸。





「ここにいちゃ、だめ?」





恐々と投げられた問い。
今にも泣き出しそうな顔をして、涙混じりの震える声で。
瞬きひとつせずに、ひたとこちらを見据えて。

「……仕方ないね」

くす、と笑みを零して言えば、ぱっと子供の表情が明るくなる。
おいでおいでと手招くと、膝の上にちょこんと座った。

「仕事が少し残っているから、ちょっとの間じっとしておいで。
 それから、誰か来たらさっきみたいに机の下に隠れること。いいかい?」
「うんっ!」

元気よく頷いて、その弾みで膝から転げ落ちそうになった子供を慌てて抱きかかえる。
何が楽しいのかきゃあきゃあと声を上げてはしゃぐ姿に、ほっと息を吐いた。





「ここに判を捺してくれるかな?」
「えっと、ここ?」
「そうだよ」

朱肉に押し付けた判を構え、えい、と書類に捺していく。
じっとしていろとは言ったものの、遊びたい盛りの子供を抑えるには弱すぎる枷で。
暇を持て余して、もぞもぞと身じろぎを始めたものだから、

「少し手伝ってくれるかな?」

試しに問うたら笑顔で頷いて。
判を捺すくらいなら、子供にも出来よう。
多少ずれてしまっても、問題にはならないのだし。
うっかり朱肉に触れた手を拭ってやると、くすぐったいのか声を上げて笑った。





不意にコンコンとノックが響く。
膝の上で、子供が身を硬直させた。
その拍子に、ぽろりと判子が転げ落ちる。

「あっ……!」

慌てて手を伸ばしたけれど、あと少しという所で届かない。
ころころと転がった先に、開かれた扉。
気付いた時には、もう遅かった。





「失礼します。灰名様、この書類なんですが……おや?」

コツ、と爪先にぶつかった判子を拾い上げ、伸ばされた小さな手に目を留める。

「ああ、救世主様。こちらにいらっしゃったんですか」

にっこりと、人好きのする笑顔を浮かべる文官に対し、
花白の表情はさっと曇った。

「ご両親は先ほどお帰りになりましたよ」

びく、と子供の肩が跳ねる。
俯いたまま、床の上で拳を作った。
その手が少しだけ震えているのが、離れた場所からでも見て取れる。

「お会い出来なくて残念そうでしたが、
 元気に過ごされていると聞いて安心したご様子でした」
「……そう」
「救世主様?」





顔をあげない子供の様子に、不思議そうな声で呼ぶ。
悪気はないのだ。ただ少し知らないだけで。





「急ぎの書類ではないのかい?」
「あ。そうでした。これなんですが、ご確認を」

渡された書類に目を通し、そっと文官に耳打ちをした。
ほんの僅か、その目を瞠って、なるほどと小さく頷きを返される。





「花白様」
「……なに……?」

子供の視線に合わせて膝を折り、手にした書類を差し出して、

「こちらに判をお願いします」
「え?」
「はい、どうぞ」

先ほど拾い上げた判子を手渡し、ここですここ、と指し示す。
きょとんと丸くなった目。
戸惑って、こちらを見上げる不安げな眸。

「急ぎのようだからね。捺してあげなさい」
「……うんっ!」

ひったくるように書類を受け取り、ここでしょう? と確認を取って。
トコトコと机まで歩み寄って、エイとばかりに判を押した。
力を入れすぎたのか、少しぶれてしまったけれど。

「ありがとうございます、花白様」

またお願いしますねと微笑んで、文官は扉の向こう側。
その足音が遠ざかってから、花白は膝の上によじ登った。
机の上に書類がないのを見ると、小さく首を傾げてみせる。





「あれ。もうハンコいらないの?」
「さっきの書類で最後だったからね。今日の仕事はおしまいだよ」

子供の柔らかな髪を撫でてやる。
つまらない、と唇を尖らせる花白の耳元で、そっと問いを囁いた。










さて、これから何をして遊ぼうか?











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