こんな所に……。

人気のない廊下で、薄く開いたままの扉の前に佇み、思う。
仔猫一匹が通れる程度の隙間でしかないけれど、気付くには充分だった。
少なくとも、自分にとっては。

二度三度と周囲の気配を窺って、静かに扉を押し開けた。
ひくりと小さく震えるように、凝っていた空気が動く。
出来うる限り音をたてないよう、重い扉をそっと閉めた。










─伝えたりない言葉─










普段使われていない部屋なのだろう。
家具調度品の類には、どれも白い布が被せられている。
窓を覆う分厚いカーテンのために日の光はほとんど入らず、
室内はどこまでも暗かった。

「ああ、いたね」

手探りで伸ばした腕の先。
びく、と身を震わせる子供の頬は柔らかく、確かな熱を持っていた。

指先に感じた水の気配は、隠れて流した涙だろう。
膝を抱えて、たったひとりで。
暗闇を恐れないはずもないのに、こんな場所で。

「少し埃っぽいな、ここは」

隣、いいかな?
恐らく目を丸くしているのだろう。
こちらを見上げる子供の応えを待たずに腰を下ろした。





壁に背を預けて、じりじりと距離を取ろうとする幼子の肩に手を置く。
ほんの少し力を込めれば、あっけなく抱きすくめることが出来て。
これといった抵抗もなく腕の中に納まった子供は、弱々しく身じろぎをした。

「……かいな」
「うん、なんだい?」

くるしいという小さな訴えに、小声で謝り、腕の力を緩める。
仔犬や仔猫がするように、ふるふると頭を振ってみせ、子供はほうと息を吐いた。
俯いて、黙りこくる子供の髪を、何度も何度も指で梳く。
柔らかな髪はくしゃくしゃになり、けれど絡まずに流れていった。





「花白」

名を呼べば、細い肩が悲しいほどに跳ねる。
顔は一層下を向き、華奢な身体が怯えを孕んで小刻みに震えた。
怒っている訳ではないのに。
叱ろうとしているのではないのに。

大丈夫だからと髪を撫でて、軽すぎるその身を抱き上げて。
唇を噛み、嗚咽を殺す小さな背を軽く叩いた。
鼓動を刻むように、赤子をあやすように。





「私は、君のことが大好きだよ」





耳元で囁く言葉から、どれだけの想いが伝わるだろう。
堰を切ったように溢れ出した涙は、流れる前に上着に吸われた。
縋るように袖を掴む手の力は、想像以上に強いもので。
あまりに小さな手からは血の気が失せて、
白くなってしまっているだろうことは安易に想像がついた。

大丈夫だと何度も言うのに。
誰も咎めたりしないのに。
それでも声を殺すことを止めない子供は、なんて痛々しいのだろう。










ただ大切なのだと、愛しいのだと、そう伝えたいだけなのに。











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