瞬間、大きく世界が揺れた。堪らずその場に膝をつく。
小鳥の囀り、風の囁き。まるで何事もなかったかのように。
何故? と思うより早く、ああ、と諦めの色濃い溜息。
欠けた歯車は補完された。世界が正しく廻りだす。
─最後の夜─
足音、衣擦れ、息遣い。認めてゆるりと目を開ける。
壁に預けた背を引き剥がし、やあ、と軽く手を上げた。
「こんばんは。くまさん」
「……大きいの、か」
驚いたように目を瞠る。
今にも零れ落ちそうな藍色が、惑い揺らいで伏せられた。
口角が僅かに上を向く。引き攣るように、震えるように。
それは哀しい笑みのかたち。
「あんたは、」
「うん?」
「結局、名前では呼ばないんだな」
最後まで、と聞こえた気がした。
責めるでもなく注がれる、流れて消える言霊綴り。
果敢ない音を拾って抱いて、大事に大事に刻み込む。
「だって俺の“玄冬”じゃないもの」
俺の玄冬はもっとずっと小さかった。
頭の中でごっちゃになるから、だから呼んでなんかやらないよ。
告げれば苦い笑みを浮かべてみせて、それもそうだな、と静かに頷く。
「それにさ、」
言わずにおこうと思っていた。
黙っていようと、決めていたけど。
今言わなければ二度と機会はないのだろうと、
そう漠然と感じたから。
「くまさんだって、俺のこと名前で呼ばないじゃない」
はっと息を呑む気配。
気まずげに視線が逸らされる。
お互い様だと笑い飛ばして、作り笑顔を貼り付けた。
本心なんて気付かぬ振りで。
「だから、ね? お相子でしょ?」
肩を揺らして笑ってみせる。
相手は憮然とした面持ちで、けれど何も言いはしない。
目尻に僅かに浮いた涙は笑い過ぎたせいにして。
「あ。じゃあ俺そろそろ行くね」
「……もう、か?」
「うん。これからタイチョーにご挨拶」
にっと笑う。笑んでみせる。
晴れた夜空の双眸に、笑ったように映ればいい。
じゃあねと手を振り踵を返し、追ってくる視線は知らん振り。
「……嫌いじゃあ、なかったよ」
声も気配も届かぬ場所で、ぽつり零した言霊ひとつ。
誰の耳に届くこともなく、夜風に晒され攫われた。
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