ここへは来るなと告げることは容易い。
頷き、すぐさま踵を返して、どこへなりと姿を消すのだろう。
しかし、ここ以外の何処へ行こうと言うのか。
帰る場所などありはしないのに。










─血塗られた祈り─










頬に額に、押し当てられる手。
薄く眼を開けば薄闇の中、こちらを窺う濃い色の双眸。
かちりと目が合い、相手の瞼が引き下ろされる。
細められた夜闇の色、起きたか、と零す声音は低く。

「痛みは?」
「……だいぶ、いい」
「そうか」

それは良かったと言いながら、包帯の巻かれた腹部に触れてくる。
傷に障らぬようにと軽く添えられる手のひら。
じわり広がる得体の知れない熱。疼く痛みが希釈される。

「おい」
「……なんだ」

その手を掴む。嫌に冷たく強張った手を。
途端、痛みがぶり返したが、表情に出さぬよう押し殺す。





「……どうしたんだ……?」

こちらを案じる声音。表情を窺う目の色。
根底に潜む不穏な昏さに気が付かぬほど愚かではない。





碌に眠っていないであろう疲労の色濃い顔。
こちらをひたと見据える眼の下、浮いた隈がその証拠。
月明かりと燭台の心許ない灯りの下でも、はっきりと見て取れるそれ。

「……おまえは、」
「うん?」
「いつも他人のことばかりだな」

自らを顧みたことはあるのかと、そんな問いが口を突く。
空いた手で隈をなぞり、消えぬものかと歯噛みした。
なんなんだ、と訝しむ表情にも、どこか翳りが窺える。

「たまには休め。倒れでもしたら面倒だ」
「……ああ」

そうだろうな、と小さく笑う。
仕事に障りが出るだろうからなと、弱々しく。





今は亡い幼馴染の悲鳴にも似た言葉が甦る。
殺したくない、殺さないと、涙混じりに吐き捨てた。
ああも頑なに拒んだ理由を今更悟って何になるだろう。
二度と帰りはしないのに。





「明日も来るのか」
「そのつもりだが?」
「……そうか」





「迷惑、か?」

驚くほど静かに投げられた問い。
眼を瞠り、仰いだ双眸の深い昏い藍の色。





「いや。助かる」





応えるまでの間を、どう受け取っただろうかと。
そんなことにまで考えを巡らせることが出来るほど器用ではない。
故に、拙い言葉を吐く以外の方法を見出すことも叶わずに。

「無理は、するなよ」
「……ああ」

去り行く背中、遠ざかる足音。
扉が閉ざされると同時、重い静寂が室内に満ちた。





それ以上、自らを責めてくれるなと。
口に出来ればどれだけ楽だろう。
叶いもしない願いを、届きもしない祈りを抱いて、
ひとり目を閉じ息を吐く。

言えるはずもない。出来る訳がない。
救世主を、花白を手に掛けたのは他ならぬ俺自身だ。
だのにそれを己が責任だと思い悩む、玄冬に何をしてやれる。










ただ居場所を与える以外の、他に何を……?











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