どこまでも深く堕ちていこう。
この手が君に届くのなら、君に少しでも近付けるなら、
何を捨てても構わない。










─深淵─










朝が来る度に襲う痛みは、日々少しずつ広がるようで。
不可視の傷、埋もれた痣。心の臓に穿たれた穴。
夜毎の夢に魘されて、目覚めてからも名残に浸る。

目の前に掲げたてのひらを強く握れば血の気が失せる。
ゆるく開いて額に押し当て、深く深く息を吐いた。

「……また、だ……」

小さな呟き、溜息混じりに。
悔しげな色が言葉に滲む。

夜な夜な繰り返す夢の中、あと少しというところで届かない。
数歩先を行く玄冬の背中に、優しかったその腕に。
名を呼んでも、懸命に駆けても、近付けはしても追い付けない。

目に映るのは後ろ姿ばかり。
そんな夢を、何度見ただろう。





「……まだ、君に……」
「うん? 何だね?」

不意に降って湧いた声。
吐き出しかけた言葉を呑む。
見上げた先には人を食った笑み。

「っな……!」

驚きと羞恥とで跳ね起きて、鈍い頭痛に襲われた。
文句を言おうと開いた口から、代わりに漏れる低い呻き。
眩暈に崩れかけた身体を咄嗟に支えたのは黒鷹の腕。
大丈夫かと声を掛け、驚いたように目を瞠った。

「酷い顔だな。眠れなかったのかい?」
「……ちゃんと、寝てる」
「それにしては凄い隈だよ。パンダにでもなるつもりかな?」
「ならないっ!」

目の下に浮いた隈をなぞり、頬を這う手を押し退ける。
噛み付くように言葉を吐けば、酸欠と頭痛とでまた眩暈。
トンと軽く肩を突かれて、崩れた身体は寝台に沈んだ。
起き上がろうともがいても、手首を縫い止められていては叶わない。

「離せよっ!」
「駄目だ。起きたところで床とオトモダチになるのがオチだよ」

だからじっとしておいで。
片手で花白の動きを制し、空いた腕では毛布を引き寄せる。
喉元まで被せてやって、満足げな笑みを浮かべてみせた。





毛布を整えるように軽く叩き、さらりと触れた額に熱。
ほんの僅かに顔を顰めて、けれどすぐさま笑顔を取り繕う。

「粥でも作ってくるからね、それまで横になっていなさい」
「……おまえ、料理なんて出来るのかよ」
「簡単なものならね」

そもそも粥なんてものは米と野菜を柔らかくなるまで煮ればいいだけの話だろう?
煮えたら調味料で味を整えて。うん、簡単なものじゃないか!

手順を指折り確認し、自身あり気に胸を張る。
胡散臭げな目を向ける花白の髪を掻き乱し、だから大人しくしておいで、と。

「出来たら起こすよ。それまで少し眠るといい」
「……眠くなんてない」
「横になるだけでもいいさ。寂しいからって泣くんじゃないぞぅ?」
「誰が泣くかこのバカトリ! さっさと行けよ!」

投げ付けられた枕を顔面で受け、痛いじゃないかと言葉が尖る。
拗ねたような口調に対して、その表情は楽しげだ。

「それだけ元気なら安心だ。また後で」
「……うん」

手渡された枕を抱え込み、小さな頷きをひとつ返す。
毛布をぐいと引き上げたのを見届けて、木造の扉をそっと閉めた。










扉を閉じる。隔たりを築く。
子供に悟られないように、深い深い溜息を吐いた。

「また、か」

閉ざされた扉、漏れ聞こえる声。
苦しげな息遣いと涙混じりの悲鳴。
窺う暗がり、彷徨う腕。
ふらりふらりと頼りなく、追えど求めど掴めない。

「もうお止め、玄冬」

口にするのは今は亡き子の名。
夢魔に魅入られた彼の子供が、求めて止まない相手の名だ。
紡ぐ言葉に応える者はなく、ただ静寂が呑み込むだけ。

「あれが君でないことくらい、百も承知なんだがね」

けれどあの子は、あれが君だと信じて疑わないんだよ。
君とは違うと知りながら、気付かぬ振りをしているのかも知れないけれど。





「……あの子を連れて行くのは止めてくれ給え」

そんなこと、君は望まないだろう?

「君にあの子を死なせてほしくはないんだ」

そんなことを、君は決して赦さない。





「だからね、もう止めなさい」





止めてくれと願うかのように、紡いだ言葉が溶けていく。
夢魔の蔓延る静寂に。気だるさを孕んだ静寂に。










出来損ないの粥を手に、戻った部屋には眠る子供。
顰めた眉、額の汗。ふらり、彷徨う青白い腕。

「……花白」

細い肩を揺さぶって、その耳元で名を呼んで。
冷え切った手を強く握った。

「ほら、起きなさい。冷めてしまうよ」

きつく閉ざされて瞼が震え、紅い双眸がちらりと覗く。
二度三度と瞬いて、夢の名残を抱いたまま、かちりと視線が絡み合った。
満面の笑みをうかべてやる。

「おはよう、花白」
「……ん」

僅かに顔を顰めてみせて、寝ぼけ眼でこちらを見上げた。
掴んでいた手を軽く引けば、のろのろと起き上がり、欠伸をひとつ。

粥の椀を覗き込めば、不躾なまでの顰め面。
それでもきれいに平らげたのだから、決して不味くはなかったのだろう。
文句を言いつつ食べる姿を、思い描けば笑みが零れた。





夢魔の腕は温かろう。紡ぐ言葉は甘いだろうね。
けれど駄目だよ、その手を取っては。
耳を貸してはいけないよ。

言ったところで届かないなら、無理矢理にでも奪ってしまえ。
何度でも何度でも、掬い上げてやろう。
酷く優しい夢の淵から、果ての見えない暗闇から。
どんな痛みを伴おうとも、連れていかせはしないからね。











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