もう終わったことだって、ちゃんと知っているけれど。
恐れる必要なんてないのだと、頭では解っているけれど。
徐々に濃くなる冬のにおい。
灰色の空から舞い落ちるのは真白い鳥の羽ではなくて。
─六花─
吐き出す息が白く濁る。
凍てつく空気を吸い込んで、鼻がツンと痛むよう。
足元には無数の霜柱。
踏み拉く度にさくさくと、軽い小さな音をたてた。
「……寒い」
首を竦め、溜息ひとつ。
見上げた空はどんよりと曇って、重苦しい灰色をしていた。
日が照れば少しは暖かくなるのに。
そう思いながら手指を袖に仕舞い込む。
「花白」
呼ばれて僅かに顔を上げる。彷徨う視線、捉えた姿。
同じように白い息を吐きながら歩み寄ってくる人影に、
なに? と首を傾げてみせる。
相手は小さく頭を振って、呼んだだけだと呟いた。
「降ってきたな」
「……うん」
ちらり、ちらり。
手の届きそうな低い空から、少しずつ少しずつ吐き出されるそれ。
触れただけでも溶け消えてしまう、酷く儚い冬の花。
「……止む、よね」
「うん?」
「雪、ちゃんと止むよね……?」
一度は世界を追い遣った雪。
降り頻る粒子は小さいけれど、積もり積もって世界を染めた。
酷く穏やかな静寂に。他の色彩を消し去るような、冷たい冷たい白銀に。
雪が好きだと口にしながら、いつもどこかで恐れていた。
世界が白に閉ざされやしないかと。雪のために、滅びやしないかと。
滅びを回避せんとして、玄冬をこの手に掛けることを。
「止んで欲しいのか?」
まだ降り始めたばかりだぞ。
そう言いながら、二度三度と僕の頭を撫でた。
何度も僕の髪を梳き、しばらくは止まないだろうと告げる。
「もしかしたら、明日は一面真っ白になっているかもしれないな」
さらり、吐き出された言葉。それが酷く恐ろしかった。
どこまでも続く銀世界、玄冬の手を取り逃げた日々。
殺せと詰め寄られ、もしも拒んだら……?
「……いやだ」
「花白?」
どうした、と心配そうな顔をして。
覗き込むように、こちらの表情を窺ってくる。
なんでもないと首を振り、泣き出しそうな目を見られまいと顔を背けた。
「……嫌だよ、もう……」
あんな日々には戻りたくない。
やっと手に入れた、幸福を手放したくはなかった。
あの人や黒鷹や、たくさんの命の上に築き上げた小さな幸せ。
それを今更取り上げられてしまうなんて。そんなことは、絶対に嫌だった。
「花白」
名を呼ばれても応えない。ちらりとも、目を上げられない。
顔を上げるなんて、とんでもない。今にも泣き出しそうなのに。
寒さとは違う込み上げるもので、鼻が酷く痛むというのに。
「見てみろ」
ズイと差し出されたのは、所々に雪を連れた玄冬の腕。
腕がどうかしたのかと、問いを投げれば首を横に振られる。
そうじゃない、よく見てみろ、と。
「花が見えないか?」
「……花?」
「雪の一粒一粒が」
花に、見えないか?
言われて初めて目を凝らす。
よくよく見れば雪ひとひらが確かに花のように見えて。
嫌に角ばった花弁を広げて、それがとてもきれいだった。
「きれいだろう?」
「……うん」
雪がこんな形をしているなんて、今の今まで知らなかった。
ただの冷たい、綿みたいなものだとばかり思ってた。
こんなにも綺麗だなんて。
「ひとつひとつ形が違うんだそうだ」
「これ全部?」
指し示そうにも多過ぎる。
ちらりちらりと降り続く雪、そこかしこに積もり始めた白い花。
「さあな。確かめたことはないが、そうらしい」
はたはたと、身体に積もった雪を叩き落として、
その手がくしゃりと髪を撫でた。
雪まみれだと、声が笑う。
心を満たす安堵感に、ホウと息をひとつ吐いた。
「……もう、終わったんだよね」
だから雪が綺麗だなんて言うんでしょう?
以前なら、雪が降るたびにどこかが痛むような、苦しい顔をしていたのに。
今はとても穏やかだ。優しくて温かな表情をしてる。
「いや、終わってはいないさ」
「え……」
すっと体温が下がるような、身体を巡る血液が、熱という熱を奪われたような。
ぐらりと眩暈を伴う感覚。傾いだ身体を支えたのは玄冬の腕。
「俺たちは生きてる。違うか?」
違うか、と。
真っ直ぐな視線をこちらに向けて、確かめるように問うてくる。
深い色の双眸には、強い光が宿っていて。
「……違わない、ね……」
笑顔を浮かべたつもりだった。
けれど、泣くなと抱き寄せられる。
玄冬の表情は伺えないけど、困ったような声が聞こえた。
終わりなんて、来ないんだ。
僕らが生きている限り、雪は降るし季節は巡る。
冬だけが続くなんてことは、もう二度とないんだ。
この先、ずっと。
「……よかった……」
もう雪を怖がる必要なんてない。
綺麗だって、思っていいんだ。
この雪はちゃんと止むのだから。
滅びを連れて来ることなど、ないのだから。
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