目を覚ますと懐かしい匂いがした。
伸びをしようと動かした腕は何か柔らかなものに阻まれる。
訝しんで眠い目を開ければ、嫌と言うくらいに見慣れた、けれど酷く懐かしいそれ。
声もなく、ただ見詰める。くるりくるりと音もなく、脳裏で思考が旋回した。










─夢路─










ノックもせずに開けた扉。投げられるのは非難の視線。
それもすぐに溜息になって、早く閉めろと叱られた。

「やっと起きたんだな」
「……ん。上着ありがと」
「ああ」

適当に折り畳んで腕に引っ掛けてきたそれを手渡す。
そこかしこについた皺、僅かに顰められた眉。
怒られるかな、と思ったけれど、溜息ひとつでそのまま羽織った。

「随分とよく眠っていたな」
「そう?」

ウンと大きく伸びをしたら、背骨がぱきりと小さく鳴いた。
首を回せば小気味よく、ゴキ、と鈍い音がする。

「普段なら気配を殺しても近付けば飛び起きる癖に」
「飛びやしないよ。起きるけど」

笑みを刻んでそう答えた。
紙を繰る、乾いた音。ペンを走らせる軽い旋律。
どれもこれも飽きるくらいに聞いてきた。
だのに酷く懐かしい。





「余程いい夢を見ていたんだな」





何気ないその一言に、腹の底が冷える気がした。

「……そうかも、ね」

夢、ゆめ、まぼろし。
そんな軽過ぎる言葉ひとつで。

「幸せな夢だったよ」

滅びを忘れた玄冬が二人。
救世主に至っては三人もいる、滅茶苦茶な世界だったけど。
ぬるま湯みたいにあたたかくて、誰も彼もが平和に浸って酔い痴れて。
幸せな世界、大切な世界。今となっては夢のユメ。





「だけど、おまえはいなかった」





トン、と書類を揃える音。
二度三度と繰り返されて、バサリ、机の脇に積む。

「それで?」

促す口調、見据える眸。
言葉に詰まり、隠すように、何が? と首を傾げて見せた。

「……いや、いい。気にするな」

ふいと視線を脇へ逸らし、山と積まれた書類を手に。
はらりはらりとそれらを繰って、判を捺し、ペンを走らせる。
なんとなく居た堪れなくて、欠伸を噛み殺す振りをして俯いた。
口元に遣った手が、ほんの少しだけ震えてる。

「また見られるといいな」
「……何……」
「覚めるのが惜しくなるくらい幸せな夢だったんだろう?」

トントンと書類の束を揃えては、机の脇に積み上げていく。
目線はこちらに寄越さずに、ただ声だけが真っ直ぐに。





「……そう、だね……」





相手はこちらを見ていない。
それを知っていても尚、無理矢理笑みを浮かべてみせる。
笑わなければ泣きそうだから。繕わなければ崩れそうだから。
きっと幼馴染には、そんな魂胆は知れてしまっているのだろうけれど。
解っているからこそ、顔を上げずにいてくれているのだろうけれど。

「酒でも飲んで早く寝ろ。今夜は付き合ってやってもいい」
「へーぇ、珍しい。明日は雨かな」
「言ってろ」

明日の分の仕事はきっちりこなしてもらうからな。
そう釘を刺して、片の付いた書類を山に。
机を照らす灯りが消され、薄闇の中、歩み寄る気配。





「泣くなら顔くらい隠せ。馬鹿が」

くしゃくしゃと髪を乱される。
不意に強く抱き寄せられて、顔を上げようにも頭の後ろの手が阻んだ。
ぐず、と小さく鼻を鳴らせば、垂らすんじゃないぞと慌てたように。

幸せな夢、あたたかな場所。
もう戻れないけど。帰ることなんて出来やしないけど。
どちらかひとつなんて選べないから。










きっとよかったんだ、これで。










よかったって、思えるんだ。











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