いつ、だったろう。
あの子に会うのが苦しくなったのは。
普段通りに笑おうとして、頬が引きつるようだった。
上手く、笑えなくなった。
儀式の日取りを告げられてからは、特に。
─明日に散り逝くいのちの為に─
これで最後と決めてきた。
明日でお別れ。もう会わない。
もう、会えない。
扉を叩くと近付く足音。
開かれる隔たりの向こう側で、幼い笑顔が出迎えてくれる。
「いらっしゃい!」
弾む声が、刺さる。
耳ではなく、腹の奥底に潜む無形の臓器に。
刺されど刺されど血は流れずに、ただ痛みだけが駆け巡る。
見えない傷から、絶え間なく。
膝を折り、視線を合わせた。
くるくると表情を変える宵闇の眸。
柔で真っ直ぐな黒い髪。
早く中へと急かす手は、片手の中に収まるくらい。
「元気にしてた?」
「うん。あなたは?」
「元気じゃないように見える?」
意地悪く問いで返したら、ふるふると首を横に揺らした。
白い頬の輪郭に沿って、髪がさらさら流れてく。
鴉の羽みたいな艶やかな髪を、そっとそっと掻き乱した。
指に絡む絹糸のような細く滑らかな感触が、愛しくてたまらない。
「今日は何して遊ぼうか?」
出来るだけ普通に、そう思ったけど。
玄冬の顔が少し強ばる。かなしそうに、眉尻を下げた。
ああ、もう嘘すら満足に吐けない。
とっぷりと降りた夜の帳。空には微かな星屑が踊る。
帰らなきゃ。ぽつりと零した独り言。
それは自分に言い聞かせるため。
でなきゃ、帰りたくなくなりそうだから。
く、と軽く裾を引かれた。
驚きのままに目を見開き、視線を落としたその先で、
「……かえらないで」
思い詰めたような、どこか必死な顔をして俺を見上げる玄冬の姿。
かちり、視線がぶつかった。逸らすことが出来ない。
「かえらないで」
言葉が、刺さる。貫き突き抜け痛みを残す。
どうしよう。どうしたら、いい。
答えは決まりきっている。
大事な用があると言って、踵を返せばそれで済むのに。
この両足は根を生やしたかのように微動だにしない。
俯いた子供のつむじが見える。
手を、伸ばした。
指の腹に、手のひらに、触れる細い髪の質感。
はっとこちらを仰ぐ目の、どこまでも深い青色に。
「しょうがないなぁ」
にっこりと、笑いかけた。
上手く笑えているかどうかは定かではないけれど。
小さな体を抱き上げて、縋る腕を首元に感じて。
支える背中の薄い肉越し、確かに脈付く命を聴いた。
手指の柔な肌を伝って、流れ込む熱に目眩がする。
細めた目、薄く笑んで。一枚の毛布に二人で潜る。
手を繋ぎ、身を寄せあって、寝台から転げ落ちないように。
「おやすみ、玄冬」
欠伸を殺す振りで言う。
この子が眠ったら出て行こう。
もう、ここには居られない。
「また明日ね」
とろりと睡魔にとろけた目が、薄い瞼に隠される。
明日など来なければ良いのにと、ちらとでも思ったことに苦笑した。
返す言葉も、また明日。
繋いだままの小さな手が、握る力を強くしたことに気付きもせずに。
眠る子供の手のひらから、己が手指を取り戻す。
起こさぬように、そっと、そっと。引き抜き、緩く空を握った。
手の中に残る僅かばかりの熱の残滓を、留めようとするかのように。
空いた腕をついと伸ばす。
子供の髪を、軽く梳いた。次いで、頬に口付けを。
これで、最後だ。もう会わない。
もう会えない。
君のことを愛した俺は、ここに全部置いていくよ。
明日には、君の知らない誰かになる。
君をこの手で殺すから。
最期を、ちゃんと見届けるから。
だから、
今日までの自分に、大切な君に、さよなら。
明日に散り逝くいのちの為に
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