たった一握りの薄紅を、そっと手の中に仕舞い込んだ。
萎れてしまわないように、握り潰してしまわないように。
やっとの思いで手にした花を、一刻も早く見せてあげたかった。
はらはらと散ってしまわぬうちに。俺を置いて、枯れてしまわぬうちに。










─桜─










ばたばたと廊下を駆け抜ければ、走るな! という聞きなれた怒号。
どことなく覇気がないように感じられる声に耳を傾ける暇さえ今は惜しい。
両の手は塞がり自由が利かず、何度となく転びそうになりながら、
ただひたすらに先を目指した。

「花白っ!」

肘の関節を駆使して開けた、重く古い木造りの扉。
肩をぶつけるようにして押し開ければ、ふっと空気のにおいが変わる。
気管がスッと冷えるような、鼻に抜ける香のにおい。
それに混じってほんの僅かに、据えた病の臭いがした。

「どうしたの? 息、切らして」

細い細い声。陶器か硝子を弾いたような、高く澄んで、掠れた音。
寝台に座す影は華奢で、肌は抜けるように白かった。

「おみやげ。手ェ出してみろ」

歩み寄り、寝台の隅に腰掛けて。
ほら、と促せば、不思議そうな顔をしながらも差し出される手のひら。
結んだ両手をぱっと開けば、はらはらと、ひらひらと、手のひらに積もる薄紅色。
驚きに瞠られる目は、今にも零れ落ちそうで。





「……なんで……?」





紡がれた声は更に掠れて。
信じられない、って顔に書いてある。

「花白が見たいって言ったから」
「だって、いま……秋だよ……?」
「秘密の魔法を使ったんだよ」

にっと笑ってみせる。
花白は何度も何度も瞬いて、手の中の花を眺めてた。
まるで大事な宝物を見るみたいに。

「どんな手を使ったのさ」
「元気になったら教えてやるよ」

くしゃくしゃと髪を乱して。
やめろよ、と声をあげて笑う花白を、心の底から愛しく思った。
膝に零れた薄紅の花。狂い咲かせた桜の花。
目をまん丸にして、驚いた顔をして。喜んでくれるのが嬉しかった。
本当に、嬉しかった、から……。









もっともっと、見せてあげたかった。










「……花白……」

ふっくらと合わせた両の手から、ざらざらと零れる淡い色。
落ちた先は無機質な床、踏み拉かれて、腐るようで。

「また、持ってきたよ。さくら」

手の中に残った花ひとひらを、そっとその手に握らせて。
冷えた肌の質感は、薄紅のそれとよく似ていた。
すべすべで、冷たくて。
ほんの少しだけ、あたたかいような。

「……枯れちゃったんだ、この木……」

無理をさせたから、と。
そう告白しても、何の言葉も返らない。
きっと叱ってくれる。何でそんなことしたんだよ、って。
勝手に期待して、裏切られて、込み上げるのは虚しさばかり。





「でも、これで寂しくないだろ……?」





あたたかな雪の花が降る、あの木が一緒なのだから。
夏中酷いことをしたけれど、許してくれるかな、なんて。
花白には優しくしてくれているといいな、なんて。
そんな都合の良いお願いをして。










花が散って、葉が出てきたら、その葉を全部毟ってしまう。
そうすると桜は冬が来たと勘違いして花芽を作り、秋に狂い咲くのだそう。


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