花白に怒られるかなぁ、とか
もしかしたら泣かれるかもしれないなぁ、とか
それどころじゃあ済まないんだろうなぁ、とか。
どこか他人事のように考えていた。
─再び、冬─
珍しく思い詰めたような顔をして、「話がある」なんて言って腕を引く。
手首を掴む力は強く、骨の軋むような痛みを覚えるくらい。
過ぎるくらいに優しい人の余裕のなさが窺えて、ほんの少しだけ驚いた。
「どうしたの熊サン。もしかしてデートのお誘い?」
「違う」
ばっさりと否定されて口を噤む。
普段から冗談なんて通じない相手ではあるけれど、
発せられた声はいつも以上に硬かった。
人目を避けて歩を進め、ようやく熊サンは足を止めた。
ゆっくりとこちらを振り返る、その表情が酷く暗い。
「こんなとこ連れてきて、何のつもり?」
ひたひたと密やかに忍び寄る予感を散らして、普段通りの笑顔を繕う。
掴まれたままの手首を見遣り、小さく揺らして「離してよ」と。
相手は聞き入れる様子もなくて、その手に一層力が込められた。
「……救世主」
呼ばわる声音は硬く冷たく。
悲しげな色をした眸には暗い光。
「なに、熊サン」
首を傾げて、軽い笑み。
今すぐにでも手を取り返し、踵を返して逃げ出したかった。
そんなこと、叶うはずもないのだけれど。
「俺を殺せ、救世主」
吐き出された音。零された言葉。
ああ、やっぱり、と思う自分がどこかにいて。
「なんで俺なの?」
アンタの救世主は花白じゃん。
なんで、俺なの?
にっこりと、意地悪く笑った。
逡巡するように宵闇色の双眸が泳ぐ。
一度目を伏せ、ゆるり開いて、真っ直ぐな視線が向けられた。
「あいつは、気付いていない」
苦々しく、そう告げる。
きっと言葉の通り、花白は何も知らないんだろう。
チビたち二人も、気付いちゃいないはずで。
変化を感じたのは俺と熊サンと、たぶん二羽の鳥だけだ。
「へえ? だから俺にやらせるの?」
「っ、」
息を呑む。目を瞠る。
咄嗟に紡げる言葉もなく、ただ苦しそうに視線を逸らして。
黙ったままでは解らないのに。
何ひとつ、伝わらないのに。
キリリ、キリリと螺子巻くように、世界の軋む音がする。
ぎちり、ぎちりと耳障りに、世界の歪む音がした。
中途半端に回復したシステム。
救世主も玄冬も、誰一人として減らぬまま。
歯車としての役割だけが、戻って来た。
そんなこと、誰も望まないのに。
「……しょうがないなぁ、熊サンは」
手首を掴む手を振り払い、腰に佩いた剣に触れる。
柄と爪とがぶつかり合って、カツ、と硬い音をたてた。
「俺は花白大好きだから、あいつに嫌われるようなこと、したくないんだけど」
ゆっくりと、抜き放つ。
碌に手入れもしなかったのに、その刀身は冷たく澄んで。
這わせた手指、走る痛み。返した手のひらに滲む赤色。
「花白はアンタのこと大好きだから」
柄を、握る。
「そのオネガイ、きいてあげても、いいよ?」
開いたばかりの傷口が痛い。
こちらを見詰める視線が痛い。
微笑うな、そんな安心した風に。
人の気も知らないで。
「さよなら、熊サン」
ぼんやりと空を眺めていた。
流れる雲の色形、時折鳥が飛んでいく。
さっきと何ら変わらない、平穏な世界が続いてる。
花白に怒られるだろうなぁ、とか
もしかしたら泣かれるかもしれないなぁ、とか
それどころじゃあ済まないんだろうなぁ、とか。
思考はどれも上の空。
膝をついた地面の冷たさだとか
周囲に広がる生暖かな赤色だとか
頬に散った飛沫だとか徐々に熱の失せる身体だとか。
そんなものにばかり意識が向いて。
他のことなんてどうでもよくて、何を考えるのも億劫だった。
キリキリ、ぎちぎち、音がする。
歪んだ世界の悲鳴が聞こえる。
さっきよりもはっきりと。
「ねえ、止まないよ。熊サン」
耳を塞いでも聞こえるんだ。
ねえ、どうしてかな。俺、おかしいのかな。
そんな満足そうに微笑ってないでさ。
何か、言ってよ。
ねえ、熊サン。
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