* 明暗(銀救)の続き *
塒へと向かうその間に、頬の火照りは治まった。
跳ね回る心臓も平穏を取り戻し、ほうと安堵の息を吐く。
錆びた階段を一息に上り、立て付けの悪い扉を潜った。
─明暗─
帰ったのかと問う声がして、うん、と小さく頷き返す。
薄暗い室内、一脚の椅子。そこに座った馴染みの顔。
湯気の立つマグを差し出され、ありがとう、と受け取った。
一口啜ると甘味が広がり、ほう、と安堵の息を吐く。
両手で包んだマグの熱が徐々に指から全身へ。
ひとつしかないベッドに座り、少し離れた相手を見る。
鈍い色に輝く銀の髪、写真でしか見たことのない流氷の色をした眸。
隣にいても嫌じゃないのは、たぶん銀閃だけだと思う。
食い物と寝床があるだけの孤児院から抜け出した時から一緒だった。
俺がふらっと姿を消しても同じ場所で待っていてくれる。
ただいまなんて言わないし、おかえり、なんて、言ってくれないけど。
銀閃のいる所が俺の帰る場所なんだって、いつしかそう思うようになっていた。
「甘いね」
「ああ」
「おいしい」
「それはどうも」
二言三言交わしただけで途切れてしまう会話の糸。
それを寂しいとは思わない。
嫌だなんて、思うはずがなかった。
静けさの満ちる部屋の中、鼓膜を掻くのは微かな音。
互いの呼吸と紅茶を啜る音、こくりと飲み込む喉の音。
時折混じる衣擦れですら、はっきり聞き取れてしまうくらい。
温かなマグに唇を寄せ、思考をぼんやり巡らせる。
さっき会ったあの男は、銀閃にとても良く似ていた。
容姿も、髪や目の色も、話す声音も瓜二つ。
アイツの方が年上だろうか。
もしかしたら、銀閃の兄弟かもしれない。
話した方が、いいのかな。
含んだ紅茶を飲み下し、ほう、と息を吐きつつ思う。
と、蒼い視線に気が付いて、きょとりと一度瞬いた。
月白と静かに名を呼ばれ、なに? と返して首を傾げる。
「この街を、出ないか」
至極真面目にそう言われ、呼吸の仕方を一瞬忘れた。
両目を大きく見開いて、紡がれた言葉を反芻する。
頭の中をぐるぐる廻り、ようやく理解に着地して。
「……え……?」
零れて落ちた掠れ声、カタンと彼が席を立つ。
三歩もない距離をスイと詰め、冷たい床に膝をついた。
マグを抱えた俺の手を、一回り大きな手のひらが覆う。
硬い皮膚の感触と温かな熱。ひたと見上げる蒼い蒼い目。
「この街を、出ようと思う」
「……、なん、で……?」
吐息ばかりの掠れた声。らしくないと自分でも思う。
客相手なら繕える笑顔が、銀閃の前では上手くいかない。
今だってきっと引き攣ってる。頬が、口元が、ぎこちなく。
「……、……おまえに、」
「俺、に?」
躊躇うように口を閉ざし、真っ直ぐだった視線が揺れる。
マグごと俺の手を握り締め、彼は膝に額を押し当てた。
祈るように、縋るように。
「おまえに、もうあんな仕事はさせたくない」
紡がれた言葉、吐き出された想い。
再びこちらを仰いだ顔には、痛みとも苦しみともつかぬ色。
その目に射抜かれそうになって、慌てて視線を膝へ落とした。
「だから、月白」
懇願するよなその声音。決して無理を強いたりは、しない。
迷うことなんてないはずだった。
ゴミ溜めのような街を出るのは、小さい頃からの夢だったから。
けれど過った銀の面影。
鬱陶しいと思ったはずの、お節介な言葉が蘇る。
この街を出たら、出てしまったら、会えなくなるのは確実で。
「……ここを出て、どうするの」
「なに、」
「ここを出たら、どうやって食ってくの。俺は、なんにも出来ないのに」
何も出来ないその代りに、身体を売って生きてきた。
悪目立ちする容姿を利用して、愛想笑いを振り撒いて。
それ以外の方法なんて、知らない。
知らないということは、この上なく恐ろしくて。
「どうやって、生きればいいの」
嘘と本音を縒り合わせ、吐き出し紡いで唇を噛む。
落した視線を追うかのように、ぽつりぽつりと零れた滴。
彼の手を濡らし、俺の指を湿らせ、冷めた紅茶に波紋を生んだ。
外の世界は魅力的で、腕を伸ばしたくなるけれど。
きらきらとして、眩しくて、眩し過ぎて、怖かった。
太陽に焦がれる深海魚のようだと、しゃくり上げながらそう思う。
「少し、考えさせて」
引っ繰り返りそうな声帯で、そう紡ぎ出すのが精一杯。
頬に触れた硬い手のひら、目尻の涙を拭う指。
その優しさに応えられない、弱い自分が腹立たしかった。
リクエスト内容(意訳)
「身売りを止めさせたい隊×止めたら警官銀朱との接点がなくなるのではと危惧する救」
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