夜半過ぎ、玄冬が寝入ったのを確かめて、そっと上着に袖を通した。
裸足のままで床へ下り、息を殺して彼の傍へ。
寝台の脇に立てかけてある自らの剣に手を伸ばす。
爪と柄とがぶつかり合って、カツンと小さな音がした。
息を飲み、身を竦めて、恐る恐る玄冬を窺う。
けれど彼は眠ったままで、ほっと胸を撫で下ろした。
入って来た時と同じように、二階の窓から外へと出る。
足音も衣擦れも彼には届かない。
雪が全て飲み込んでくれから。
玄冬の眠る家から離れて、すらりと抜いた澄んだ刀身。
雪の灯りを弾く様は氷柱を見ているかのようだった。
吐き出す息が白く濁る。柄を握る手指も白い。
見渡す限りの雪原と、闇に呑まれた暗い空。
この目に映るすべてのものは白と黒とに埋め尽くされて。
すう、と深く息を吸い、左の袖を肘まで捲くる。
露わになった生っ白い肌に、冷たい刀身を押し当てた。
息を止め、力を込めて、躊躇いもなく柄を引く。
刹那に走った鋭い痛みは、じりじりとした疼きに変わった。
寒さで滞る血流が、左の腕に集中する。
ぱっくり開いた傷口から、徐々に徐々に染み出して。
僅かに下がった手指の方へと、ゆっくりゆっくり流れ出す。
肌の上を走る赤は意志を持っているかのように緩やかな曲線を描いていった。
腕の内側へ入り込み、緩く曲げた指へと至る。
そこで僅かに動きを止め、紅く丸い雫を作った。
ふるふると震えるその玉は、不意に指から離れてしまう。
追い掛けるように落とした視線、足元に広がる忌々しい白。
ぽっ、と微かな音をたて、赤い赤い花を咲かせた。
それが、なんだか楽しくて。僕はずっと見詰めてた。
固まり始めた血を舐め取り吐き捨て、傷口にがりがりと爪を立てて。
とっくに麻痺してしまったんだろう。痛みなんて、感じない。
不意に肩を掴まれて、びくりと大きく身体が跳ねた。
どれだけの時間そうしていたのか、頭に積もった雪が落ちる。
「何を、してる」
上着も着ないで佇む玄冬は、とても怖い顔をしていた。
眉間に深く皺を刻んで、ぎゅっと眦を吊り上げて。
肩を掴む手が離れ、赤に塗れた刀身を握る。
離せと促されるまでもなく、悲鳴と同時に手を開いた。
ツツと流れた新たな緋色は、玄冬の手のひらから溢れるもの。
僕の一番、嫌いな色。
「玄冬、手が……」
「そんなことはどうだっていい!」
聞いたことのないような大きな声。紡ぎかけた言葉を飲む。
剣を投げ捨て肩を掴んで、力任せに揺さぶられた。
怖くて怖くて見開いた目には玄冬の顔が間近に映る。
「何故こんなことをした! 言え、花白!」
がくがくと前後に揺さぶられる中、頭は嫌に冷静だった。
ああ、玄冬が怒ってる。
慌てふためく自分の裏に、もうひとりの自分がいるみたい。
ごめんなさいと紡ぐ声すら他人のもののように聞こえた。
頬を伝う涙なんて、作りものに違いない。
まだ大丈夫だって、そう思ったんだ。
痛くなんてないんだよ、ねえ、だからそんなに怒らないで。
玄冬の声は右から左へ、思考の表面を上滑る。
彼の血に染まる肩の辺りが、なんだか少し冷たかった。
何故、どうしてと問われても、僕は答えを持ってない。
どうしようもなく苦しくて、気付いたら赤を眺めてた。
腕から溢れて滴る緋色に、きっと僕は安堵したんだ。
それは余りにも鮮やかで、温かそうに見えたから。
「だって生きてる証だもの」
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リクエスト内容(意訳)
「シリアス。花白の自傷」
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