連日連夜の仕事を終えて、一息吐こうと屋上へ向かった。
自販機で買った缶コーヒーを手に階段を上りドアを開ける。
抜けるような空の青と、やや強く吹くビル風と。
大きく一度伸びをすると強張った身体が生き返るようだった。










─月の音─










屋上にしては低すぎる柵に肘を乗せつつプルタブを開ける。
一口含むとふわり広がるコーヒーの香りと仄かな苦味。
喉を鳴らして胃の腑へ落とし、ほう、と息を吐き出した。

と、ビル風に混じり届いた旋律。どこかで聴いた淡い声。
意図せず巡らせた視界に映った、青空に映える色彩の影。
風に煽られる鴇色の髪と、それを押さえる白い手指と。
柵の上に腰を下ろして、ぷらぷらと両足を揺らしている。

その足の先には何もなく、宙に向かって投げ出されていた。
このビルの、外側へと。

見開いた目は瞬きを忘れ、コーヒーの缶がするりと落ちる。
カン、と鈍い音が響いて零れた中身が足元を濡らした。
その音が耳に届いたのだろう、か細い歌がふつりと途切れる。
緋色の眸が俺を映し、ぱちりと一度瞬いた。





「っ何をしている!?」

駆け寄ろうとした足を止め、じり、とそちらへにじり寄る。
相手は緩やかに首を傾げ、トン、と柵から降り立った。
ほんの僅かに迫り出していたコンクリートの狭い足場に。
踏み外したなら命はない、足の竦むような場所へ。

「……何って」

言いながら、やや前屈みに柵に凭れた。
緊張感の欠片もなく、組まれた腕を柵に乗せて。
淡い笑みを咲かせながら、小首を傾げて言葉を紡ぐ。

「飛び降り自殺? あ、まだ未遂か」

飛んでないし、と呟く声音はどこか聞き覚えのあるものだった。
笑みを湛えたその顔も、いつか見たことのあるような。
中性的な整った顔立ちと、鮮やかなまでの緋色の眸。
一度会ったら忘れようのない、記憶に残る顔なのに。





「……どこかで、会ったか……?」

刺激しないよう問いを投げるとキョトンと両目を丸くして。
俺のこと、知らないの? と、不思議そうな顔をする。
会ったことが、あるのだろうか。
相手の顔を忘れてしまったのだろうか。

そう思った矢先、相手は笑った。
気にしないでと言いながら。

「ちょっと自惚れてたみたい。知らない人もいるよね」
「……何、」

くしゃりと笑みに顔を歪め、くすくすと軽い声を漏らして。
それまでのどこか苦しそうな表情ではなく、自然に零れ咲いた微笑。
思わず見惚れてしまいそうになった。





「俺ね、歌をうたってるんだ」
「……歌手、なのか」
「そういうこと」

だからどこかで俺の顔を見たことがあるかもしれないね。
もう歌うことはないけれど。

そう言って俺に背を向ける。
両の手のひらは柵を握ったまま、腕を背筋を真っ直ぐ伸ばして。
するりと解ける細い指、空へと傾ぐ細い身体。
さようなら、と告げられた気がした。











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