その手が柵から離れる寸前、駆け寄り相手の腕を取る。
空へと飛び立つ細い身体を、柵ごと強く抱き締めて。
「……あれ?」
腕の中から小さな声。
身じろぐ気配を押し込めるように抱き締める腕に力を入れた。
今この両手を離したら、相手はここから落ちるだろう。
なんの迷いも躊躇いもなく、翼も持たずに空を目指して。
離してよ、と言う非難の声音を聞くともなしに耳が拾った。
相手の顔を見ることも出来ず、離すものかと声だけ投げる。
「俺は、おまえを知らない。流行りにも疎い。だがな、」
口を噤んだ相手の顔を、真正面からひたと見据えた。
離せと訴えることはせず、けれど眸に拒絶の色。
澄み切った柘榴の双眸はぞっとするほど果てなく見えて。
「さっきおまえが口遊んでいた歌は、聴いたことがあるんだ」
いつ、どこで聴いたかも解らない。
けれど記憶に残っている。あの旋律が、歌声が。
心のどこかに絡み付いて、それが嫌いではないのだと。
拙い言葉を連ね繋げて、伝えようと躍起になった。
黙して耳を傾け続ける相手の顔がふわりと綻ぶ。
泣き出しそうに目を細め、出来そこないの笑みを浮かべて。
「……うれしい、な」
言葉と共に零れた涙、一粒、二粒、止め処なく。
拭ってやれたらと思う反面、腕を掴む手を離せない。
「ねえ、俺に理由をくれる?」
「……何、」
「アンタが聴いてくれるんなら、俺はアンタのためにうたうよ」
いまも、これからも、ずっと、ずっと。
アンタのためだけに、歌い続けるよ。
ねえだから、理由をくれる?
甘えた声音、強請る口調。その両の目には真摯な色。
淡く微笑むその表情と、怯えて縋る子供のように俺の服を掴む手と。
突き放すのは簡単だった。ふざけるな、と告げれば済む。
だのに、その手を俺は取った。
驚きに目を丸くする、相手の冷たい手指を握る。
「好きにしろ。だが、死ぬな」
「……、……勝手だなぁ」
「おまえに言われたくはない」
柵を乗り越え佇む姿は俺より幾つも年下に見えた。
自ら命を断とうとしたとは到底思えぬその笑顔。
くしゃりと顔を歪めてみせて、ころころと喉を鳴らし笑った。
また来ても良い? と訊ねられ、駄目だと首を横に振る。
手帳のページを一枚破り、急ぎ綴った連絡先。
ここへは来るな、柵を越えるな。用があるなら連絡を寄越せ。
矢継ぎ早に紡いだ言葉にふわりと笑みが花開く。
涙の跡の残った頬を仄かに赤く染めながら。
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リクエスト内容(意訳)
「会社員銀朱×歌手ひろし」
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