音もなく、質感もなく、ただ唐突にそれは途切れた。
空気のようだとすら言えるほどに、馴染んだ気配が不意に消える。
周囲を取り巻く全てのものが、途端色褪せくすんで見えた。
まるで彼が光を発し、世界に色を与えていたかのように。










─緤─










予感、予兆、虫の知らせ。どれでもいい。
とにかく嫌な感じだった。
腹の底に溜まった澱に無数の蛆が湧いたが如く、ざわざわと肌が総毛立つ。
悪寒を通り越して吐き気がした。

服の胸元を強く掴む。
爪を立て、皮膚を抉り、この怖気を吐き出してしまいたかった。
到底叶わぬことではあったけれど。

無駄と知りつつ振り返り、目を眇め、耳を欹てた。
何も見えない、聞こえない。
舌打ちひとつ、踵を返した。





足早に駆ける静寂の回廊。
鉛仕込みの靴底が、整然と敷き詰められた石畳を叩く。
その耳障りな足音が、嫌に速い自らの脈が、折り重なって耳鳴りを呼んだ。
怖気が、胸騒ぎが、酷くなる。

「救世主!」

呼ばわり、断りなしに扉を開けた。
やたらと派手な音がする。
僅かに乱れた呼吸を整え、投じた視線が一点で止まった。
内心、ほっと息を零す。

きょとん、と見開かれた紅い双眸。
寝台の端に腰を掛け、伸びでもしようとしていたのか、両の腕を頭上に掲げていた。
見慣れた色彩、纏う気配。幼馴染が、そこにいる。

「え、なに。どうしたの?」

伸ばした腕はそのままに、僅かに首を傾ける。
つられ流れた鴇色の髪が、白い輪郭を際立たせた。





「……、……いや」

なんでもない、と首を振る。
相手は訳が解らないと言いたげな顔をして、先程とは逆向きに首を傾げた。
ぱたり、腕が脇に落ちる。
こちらを見据える両の目に、怪訝な色が濃く浮かんでいた。

「悪かったな、断りもなく」
「え、……ああ、別に。気にしてないけど」

本当に、どうしたのさ。

尚も問う声から顔を背ける。
その目を正面から見ることが出来なかった。
薄く自嘲の笑みが浮かぶ。馬鹿なことを考えたものだ、と。





邪魔をした、と断りを入れ、踵を返したその矢先。
く、と裾を引かれる感触。
視線だけでそちらを見遣ると、布地を掴む白い指。
爪だけ仄かに赤味を帯びて。

指から手首へ、手首から肩へ。
ゆるりと辿ったその先で、紅い目が細く笑みを刻む。
唇は緩やかな弧を描き、薄く開いて音を零した。

「立たせて?」

滑らかな動作で伸ばされた腕。
その先に開く白い手のひら。
断られるとは微塵も思っていないのだろう。
もっとも、こちらに断る理由もない。

その手に触れ、緩く握った。
急いた為に火照った膚に、低い体温はひやりと沁みる。
軽く引けば然したる抵抗も負荷もなく、白い痩躯が寝台から浮いた。
俄かに距離が近くなる。





揺れる鴇色、瞬く緋色。とん、と肩口に額があたる。
俯いた表情は窺えないが、相手の身体が小刻みに震えていることは解った。
くすくすと、と息ばかりの笑い声。

「おい」
「ん、なに?」
「離れろ」
「嫌だよ」

幾分か華奢な肩を掴み、ぐいと押して距離を取った。
突き放しはせず、手は置いたまま。
真正面から緋色を見据える。

「なぁに?」

目も口元も笑ませたままで、相手は緩やかに首を傾げた。
緩やかに頭を振り、その鴇色に指を絡める。
鼓膜を淡く掠めて落ちる、吐息の笑みが波紋を投げた。










こんなにも鮮やかな色彩を、眩むほどの存在を、見失うなど有り得ない。











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