声が、聞こえた。高く細い微かな声が。
何ともなしに辺りを見渡し、小さな塊がうずくまっていることに気付く。
中庭の茂みに半ば隠れて、丸い目をじっとこっちに向けて。
両手の平に収まるくらいの、小さな猫がそこにいた。










─呼ぶ声がきこえる─










ちり、と指に走る痛み。
小さな口をかぱっと開けて、子猫がかじりついていた。
両前足で俺の手を抱き、後足は手首を蹴り上げる。
肌を掻く爪が、ざらざらした舌が、飽きもせずに纏わりついて。

「こら、痛いよ」

首根っこを摘んで、ぶら下げる。
子猫は手足をピンと伸ばし、悪びれもせずに小さく鳴いた。
毛艶が悪くて、痩せっぽちで、両の目ばかりが大きく見える。
笑うみたいにその目を細め、上目遣いに俺を見た。

晴れた空の青色を掬い上げて、牛乳を一滴落としたような。
そんな淡くまろやかな色の目で。

「お腹空いたの?」

問いを投げた。
子猫は小さく首を傾げる。
膝に乗せて頭を撫でると、喉をくるくる鳴らしてみせた。





「構って欲しいんだろう」

不意に背中で聞いた声。
勿論、猫が喋ったわけじゃない。
首を捻って振り向くと、扉の前に立つ幼馴染の姿。
その言葉を肯定するかのように、子猫が小さくまた鳴いた。

「手、齧られるんだけど」

言った傍から指先が痛い。
そのままグイと手を持ち上げたら、痩せっぽちの子猫が釣れた。

「俺は書類に足跡をつけられた。……朱肉でな」

見ろとばかりに、証拠品が掲げられる。
堅苦しい字で綴られた書面に、点々と散った小さな足跡。
わざわざ持ってきたんだろうかと内心首を傾げる。

よくよく見ると、幼馴染の頬にもひとつ、ぺたりと足跡が捺されていた。
どうやら当の本人は気付いていないらしい。
込み上げてくる笑いを必死で殺した。





「この前はインク壺、ひっくり返してなかったっけ」
「……思い出したくもない」

げんなりと幼馴染が吐き捨てた。けれど口調は柔らかい。
蒼い目が小さな姿を捉えて、ほんの僅かに表情を和らげる。
子猫はぴょんと膝から飛び降りて、銀閃の足に擦り寄った。
額や頬や鼻先を、ぐいぐいと強く押し当てる。
喉を鳴らす音がした。





それが、確か三日前。





少し身構えながら自分の部屋の扉を開ける。
ただいま、と声を掛けながら。
出迎えてくれるであろう毛玉に備えて、中腰になりながら。
そうして、小さく首を傾げた。
帰るなり飛びかかってくるはずなのに、今日は嫌に静かだ。

「……寝てんのかな」

寝台の上と下、カーテンの中、家具の裏側。
どこにもいない。

さら、と頬を撫ぜた風。窓が開いてる。
ほんの少し、それこそ猫の子一匹がやっと通るくらい。
閉めて出たはずなのに。

駆け寄り、手荒く開け放つ。
身を乗り出して下を確かめ、階下へ降りて探したけど、子猫の姿はなかった。
亡骸も。見当たらなかった。
部屋に戻る足がやたらと重かったことだけ、覚えてる。





「いないのか」

幼馴染の声がして、伏せていた顔を上げた。
扉も窓も開けたままだったと今更気付く。

「遊びに行ったんだろ。ひとりぼっちで、つまんないから」

声が掠れてた。
情けなくて薄く笑う。

「……そうだな」

一瞬の間を空けて、銀閃がひとつ頷いた。

「あいつ、元々は野良だし」
「そうだったな」
「だから、どっかで元気に……っ、」

不意に目の前が真っ暗になる。
目元が、あたたかい。





「笑うな」

幼馴染の声がいつになく硬い。
その表情は窺えないけど、眉間に皺を寄せているんだろうと思う。

「そんな顔で、無理に笑うな」

とん、と肩に掛かる重み。
首筋を掠める髪の感触。
息遣いが、近い。

「……笑うな」





「……、……笑って、ないよ」





そう返すのが、やっとだった。










耳を欹てれば聞こえる気がした。
くるる、くるると、喉を鳴らす音が。
小さな小さな、呼び声が。











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