暗闇から伸びた白い腕に、手首を取られ体勢を崩した。
ドサリとその場に倒れ込み、腰丈程もある茂みが揺れる。
息を詰めて、瞠った両の目。映り込むのは整った顔。
浮かび上がるような白いそれは、艶やかな笑みで彩られていた。
─仮初遊戯─
吐息を肌で感じる距離に、にこにこと綻ぶ笑みがある。
文句も何も紡ぐ気になれず、深い重い溜息を吐いた。
手首はしっかり握られたまま。放すつもりはないらしい。
「……おまえ、」
「うん?」
「来るなら来ると、使いを寄越せ。何度も言っているだろう」
そうでなければ誰かしら信用の置ける奴を連れて来い。
自分の置かれている立場が解っているのか?
この状況下で、無用心なこと極まりない。
諭す口調でそう告げて、距離を取ろうと肩を押す。
いやにすんなり身を退きながら、悪い悪い、と小さく笑った。
腕を支えに上体を起こし、僅かに首を傾げてみせる。
明るい色の髪が流れて、白い輪郭に沿って揺れた。
「急に来ちゃ迷惑だった?」
「……いや、」
ぐるり、思考が旋回する。
弾き出された答えは、否や。
決して迷惑では、ない。
ただ少し、戸惑うだけで。
「ならいいだろ?」
トン、と背中にかかる重み。
布地の向こうから伝わる体温。
呼吸を止めれば相手の心音すら聞こえそうな。
「静かだな」
「ああ」
「なんか、変なカンジ」
「何がだ?」
他意なく投げた問い掛けに、返ってきたのは沈黙だった。
背中合わせに身じろぐ気配と、次いで零される応えにはなり得ない声。
何事か言い掛けて飲み込みでもしたのだろうか。
ああ、とも、うん、ともつかない音が、僅かに波紋を投げるだけ。
滑らかな動作で立ち上がり、そろそろ帰ると朱唇が紡いだ。
仰いだ顔には柔な微笑み。どこか物悲しい色を抱いて。
「また来るから」
「……事前に知らせろ。それから、一人では来るな」
「嫌だよ、そんなの」
「おまえな、」
舌に乗せた台詞を遮るように、白い手のひらが手首を掴んだ。
軽く引かれて言葉を呑む。
紅い眸が嫌に近い。
「使いを走らせるより、自分で行く方が早いだろ?」
それに、と。
続く音は微かなもので。
ともすれば風に掻き消されてしまいそうな。
吐息ばかりの、ささやかな音色。
「……馬鹿か、おまえ」
自然と漏れる重い溜息。
相手はころころと笑みを零した。
「馬鹿だよ、俺は」
するりと解かれるしなやかな手指。
二歩三歩と遠ざかり、ひらり、手のひらが左右に振られた。
音を伴わない唇の動きを目で認め、頷きひとつだけを返して。
捕らわれていた手首を見遣る。
指の跡でもついていないか、と。
そんなもの、残っているはずもない。
微かにそこだけ温かい気がして、指の腹をそっと這わせて、
眉根を寄せ、口角を上げ、小さく小さく苦笑した。
そこに確かに在った熱は、最早感じ取ることすら叶わない。
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