疑問を投げるのは簡単だった。いつだって答えをくれるから。
自分で考えることの面白さも、ちゃんと教えてくれたから。
あの人を怖いと思ったことなんてなかった。
いつも優しく笑ってくれたから。
だから、訊くことはできなかったんだ。
─月の裏側─
コツコツと、小さな音が聞こえた。
扉に手を掛け開け放って、あれ? と思考が停止する。
いつもなら、あの人の姿がそこにあるのに。
今日は、誰もいない。
扉の後ろを覗き込んでも、周りをきょろきょろ見回しても、
きれいな色の髪や白い服の端っこを見付けることは出来なかった。
聞き間違えたのかな。ちゃんと聞こえたと思ったのに。
肩を落として扉を閉めたら、再びコツコツ、音がして。
弾かれたように扉に向かう足を、止めるみたいにまたコツコツと。
「あ、」
振り返って、目を見開いた。
背を向けていた窓の向こうに、きれいな色の髪が見える。
窓の硝子をコツコツと、爪の先で何度も叩いて。
慌ててそちらに駆け寄れば、にっこりと紅い目が細められた。
「やっと気付いた」
硝子越しの、くぐもった声。
窓を開けると伸びてきた手が、髪を頬をと撫ぜて触れて。
元気そうで良かった、って。また、微笑んだ。
「……どうして、窓からなの」
すぐに気付けなかったことが悔しくて、拗ねたような声で問う。
相手はくすくすと肩を震わせ、いつも同じじゃ詰まらないでしょ? と言った。
窓枠に手を掛けて、ひらりと中に飛び込んでくる。
なんて、身軽なんだろう。
「どうしたの?」
見惚れていたら不思議そうに、首を傾げて顔を覗き込んでくる。
明るい色のその髪が、動きにつられてさらさら流れた。
はっとして、我に返って、なんでもないって首を横に。
ほんとうに? なんて意地悪く、その人は顔を寄せてきた。
息を頬で感じるくらい、それくらいの、近い距離で。
「……ちょっと、びっくりしただけだよ」
言って、ぷいと顔を背ける。
きっと赤くなってるなって、自分でも解るくらい顔が熱い。
大きな手のひらが頭の上に。くしゃりと髪を掻き回す。
「今日は何して遊ぼうか?」
この言葉が、嬉しくて。
知らず知らず期待をしていて。
だから余計に、
「あなたは?」
「うん?」
「あなたは、何して遊びたい?」
たまには考えてよ、と強請れば、腕を組んで考えてくれる。
あれはこれは指折り挙げて、さあどうする? と選ばせてくれる。
だから、訊くことなんて出来なかった。
この人を怖いと思ったことなんてない。
けど、いつかいなくなってしまうんじゃないかって、そう考えたら怖かった。
「どうして、いつも笑っているの?」
同じ笑顔に見えるけど、どこか苦しそうだったり、悲しそうな時があった。
気付いて、だけど、何も出来なくて。どうしたの? って、訊けなくて。
「ねえ、どうして?」
訊いたら、きっと答えてくれる。
けど、訊いたらあの人はもう来てくれなくなるんじゃないかって。
そう思ったら、怖かった。怖くなって、訊けなくなった。
訊けないまま、ずっと気付かないふりをしてる。
「……ねえ、」
「ん?」
袖を引けば微笑んだまま、どうかした? と首を傾げて。
本当に楽しいのか、それとも苦しいのか悲しいのか、解らない。
目を見られなくて、俯いた。
「……なんでもない」
甘えるように頬を寄せて、表情を見られないように顔を埋めて。
変な玄冬、と小さく笑う気配に、袖を握る手を強くした。
苦しかったり悲しかったりしたら、隠さずに言って欲しいのに。
僕に出来ることなんてないのかもしれないけど。
でも、何かひとつくらい、あるかもしれないから。
だから、でも……どうしたら……?
「……ごめん、なさい……」
声には出さずに呟いて、お茶にしよう、と身を離した。
キョトンと瞠られた目。伸ばされた手が頬に触れて、どうしたの? と問いが零れる。
「泣きそうな顔してる」
困ったような笑みで、どこか痛いのかと訊いてくれるけど。
でもね、
「……あなただって、泣きそうな顔、してるよ……?」
喉の奥で飲み込んだ言葉。
何も言えずに首を振って、だいじょうぶだからと繰り返す。
優しくそっと抱き締められて、とんとんと軽く背を叩かれた。
何も言ってくれないのが、かなしくて、くやしくて。
小さい子みたいに泣きじゃくった。
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