ねえ花白と呼ばわる声に、なに、と返す淡い音。
ぽつぽつ交わされる言葉と言葉。時折交る笑い声。
薄暗がりの寝台に、密やかな笑みが零れて落ちた。










─ごっこあそび─










けほ、と吐き出す小さな咳に、喉の奥がちくりと痛んだ。
思わず顔を顰めた子供は、けれどもすぐに笑みを浮かべる。
大丈夫? と降る声に、へいき、と一言返しながら。

「最近、タイチョーとか熊さんとか、よく来てるみたいだけど」

何か、あったの?
そう問う声は僅かに低く、甘い優しさに満ちていた。
ことりと小首を傾げるように、尋ねる口調で紡がれる。

「何も、ないよ。ちょっと風邪っぽいから、様子を見に来てるだけじゃない?」
「風邪ならちゃんと大人しくしてろよ」

油断してると拗らすぞ、と。案じる色の濃い声で。
困ったように笑む音で、早く治せと囁いた。

「……あんたにだけは言われたくないんだけど」
「そう?」

口を尖らせそう言い返せば、くすくすとまた笑みが零れる。
むっとした顔を作りながらも、子供はどこか嬉しそうで。
うるさいな、と吐き捨てて、けれども小さく笑ってみせた。





扉の隙から窺う視線に子供が気付くことはない。
痛みを堪える誰かのその目に映っているのは一人だけ。
寝台の上で言葉を紡ぐ、やつれた子供ひとりきり。





「花白、」
「……なに」
「眠いんだろ? もう寝な?」

瞼の重みに耐える子供は、ゆるゆると首を横に振る。
やだ、と零した震える声が、寝室の闇を震わせた。

「花白が眠るまで、ちゃんとここにいるからさ」
「なんだよ、それ」
「ずっと側にいるから。な? だから寝よう?」

子供に言い聞かせるように、優しく穏やかな口調で紡ぐ。
ぱちりと瞬く緋色の眸が、どこか不安げにゆらりと揺れた。

「……ずっと?」
「ああ」
「僕が、寝ちゃっても?」
「あたりまえだろ?」

安心させようとするかのように、悪戯っぽく笑う声。
だからおやすみと囁く口調は、どこか子守唄にも似て。

「……約束、だからね。やぶったら、ゆるさないから」

差し伸べられた右の小指は絡まぬままでぱたりと落ちる。
乱れた布団を直す手もなく、子供はひとり、夢の中。





病がちだった兄のため、子供は毎日見舞いに行った。
入院生活は暇でしょう? と。何かしらの話題を携えて。
帰ろうとしない弟に、兄は困ったように笑む。
そうして不意に距離を詰め、耳元にひそり、囁いた。

おまえの中にも俺はいるよ。
目に見えなくても、ちゃんといるから。
耳を澄ませば声がするだろ?
だから少しだけ我慢して。
明日また、会えるから。

渋々頷く子供の頭を白い手のひらがやんわり撫ぜる。
寂しい思いをさせてごめんな。
そう言う声音は悲しげで。

「花白のこと、宜しくな」

子供の帰った病室で、託されたのは三月ほど前のこと。
ひとりで置いておけないからと、引き取ったのは一月前か。
あいつが眠ったその日から、夜毎聞こえる話し声。
気付いた時には、もう遅かった。





足音を殺して部屋へと入り、乱れた毛布を整える。
ふたつの声を紡いだ口から零されるのは密やかな寝息。
投げ出されたままの右の小指は、この先ずっと空いたまま。

「……おまえはまだ、そこにいるんだな……」

花白の中に、いるんだな。
ぽつりと落ちた独り言。子供は依然夢の中。
聞こえているはずがないというのに、頬を伝ったひとしずく。

わかっては、いるのだろう。
ただ認めたくないだけで。

明日また、会えるから。
懐かしい声が脳裏を過る。
いまはまだ、何も出来ない。
泣くことのない子供の傍で、祈る以外の術を知らない。

いつかこの子が全てを飲み込み、前を向く日が来たのなら。
涙も嗚咽も何もかも、受け止めようと心に決めた。










「誰か」が誰なのかはご想像にお任せします。

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