くい、と軽く袖を引かれる。
目に映るのは子供のような邪気の見えない柔な笑み。
薄く開いた唇からは甘い苦い囁きが、ほろり零され鼓膜を抉った。
─欠片─
耳のすぐ脇に手を置かれ、逃げられない、と瞬時に悟った。
背中には石壁の硬い冷たい感触がある。
吐息を感じるほどに近く彼の人の顔があるというのに、
俯きがちなその表情を読み取ることは出来なかった。
「ねえ、花白」
名を呼ばれ、はっと小さく息を呑んだ。
声音は常よりやや低く、どこか昏い翳を滲ませて。
泣いているのか笑っているのか、その肩が小刻みに揺れていた。
ゆるり、開かれる瞼。
目にして初めて、今まで伏せてあったのだと知る。
深い深い柘榴の双眸。
ちらりと瞬いて見えるのは、奥底に潜む狂気だろうか。
「狡いと思わない?」
「なに、が」
けら、と笑う色の声。
返した音は掠れたもので。
僅かに首を傾げた弾みに流れる髪がさらりと鳴いた。
それがとても綺麗に見えて、同時に酷く艶かしく映った。
「俺だけなんだよ」
独りごちるようにそう呟いた。
にぃ、と口元を歪ませて、三日月に細めた眼が嗤う。
「玄冬もタイチョーも、俺だけ、いない」
視界の隅に捕らえた手のひら。
石壁を掻く耳障りな音と、爪の欠ける微かな音。
血に染まる指を隠すように、固く強く拳を作った。
だから、さ……。
今にも掻き消されてしまいそうな声。
追い掛けるように顔を上げて、それを心底後悔した。
「おまえをちょうだい? 花白」
言葉を失った唇を塞がれ、身動きすら満足に取れずに。
ただただ熱を煽られて、呼吸と思考を乱される。
垣間見たのは哀しい微笑み。
突き放すことも躊躇われるような表情で。
ようやく呼吸を取り戻し、は、と苦しい息を吐いた。
逸れた顔が肩口に埋まる。首筋を撫ぜる髪がこそばゆい。
壁を掻いた手は背に回され、痛いくらいに抱き締められた。
苦しいと訴えることを忘れて。
離せと突き飛ばすことさえ出来ずに。
耳朶にかかる吐息が熱い。
腕も肩も震えていた。
嗤いを、涙を、堪えるみたいに。
「大丈夫、だよ」
そう言えたら、どんなによかったろう。
気休めにすらならないのに。責任なんて、取れないくせに。
結局は思うだけで、口にすることなど出来やしなかったけれど。
固まっていた両手を解いて、震える背中にそっと添える。
たったそれだけのことなのに、肩が跳ねて、息が止まった。
泣いているのかも知れない。
涙しながら嗤っているのかも知れない。
霞掛かった意識の片隅、ちらりとそんなことを思う。
今この人は何を見ているのだろう。
その手で強く抱き締めたいのは、僕なんかじゃないのだろうに。
本当に欲しいのは、誰か別の人なのだろうに。
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