玄冬ってさ、海、見たことある?

不意に投げられたその問いに、いいや、と首を横に振る。
海に関する知識はあっても、実際この目で見たことはない、と。
すると花白は頷いて、じゃあ行こうか、と俺を見る。
どこへと言葉を返すより先に、白い手指に腕を取られた。










─波に揺らぐ影─










延々と続く砂また砂。果ての見えない水溜り。
鼻腔を満たす嗅ぎ慣れないにおいと、肌に貼り付く湿気た風。
寄せては返す波の動きと、絶えず鼓膜を震わす音と。
眼前に広がる海の姿にただ呆然と立ち尽くした。

波打ち際まで歩みを進め、指の先だけ水の中へ。
纏わり付いた水を舐め、その塩辛さに目を瞠る。
濡らした指はべたついて、服で拭っても取れそうになかった。

くすくすと笑う密やかな声に波間に向けていた顔を上げる。
数歩離れて立つ花白が、しょっぱいね、と舌を出した。





「……おまえも、やったのか?」
「うん。もちろん」
「前に来たことがあるんじゃないのか?」
「あるにはあるけど。こんなに近くまで来るのは初めて」

濡れた指先を小さく振って、べたべたする、と顔を顰める。
さくりさくりと砂を踏み、俺の隣で足を止めた。

「夏になるとね、もっときれいなんだ」

太陽の光を弾いてね、きらきらって、光るんだよ。
かつて見たという光景を語る花白の顔は懐かしげで。
けれど僅かに滲んで消える寂しげな色に息を呑む。





もしかしたらと浮かんだものを口に出すことは憚られた。
そうかと頷き返すに留め、目にした色には見て見ぬふりを。

花白はそれ以上語ろうとはせず、口を噤んで微笑んでいた。
僅かに細められた紅い両目は波間に落ちて動かない。





ふるりと震える小さな体。海風に煽られ翻る裾。
首を竦める花白の、桜の髪がさらりと鳴いた。

「……そろそろ帰るか」
「あ、うん。そうだね」

はっとした風に顔を上げ、再び俺の手を取って。
行こうか、と踵を返す、その背に向けて言葉を投げた。

「次は夏に来ような」
「え」
「きれいなんだろう? 海」

一瞬こちらを振り返り、けれどすぐに前を向いて。
うん、と頷く頭の動きに、気付かれないよう息を零した。











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