かつて自室であった場所は空き部屋になっていると聞く。
そこを使えばいいよと言って、歳嵩の救世主は優しげに笑った。
髪をくしゃりと掻き回す手は自分のものより大きくて。
どうしても浮かぶ彼の面影に心の隅がしくりと痛んだ。
―呼べない名前―
静かだな、とぼんやり思う。
手の中をカップを口元へ運び、甘い紅茶をちびりと一口。
ふわり広がる味と香りに頬が自然と緩んでしまう。
けれどすぐに喉が引き攣り、きゅうと胸が苦しくなった。
震えそうな手でカップを置くと、受け皿にぶつかり音を立てる。
静かな静かな室内に、それは嫌に大きく響いた。
「美味しくなかった?」
心配そうな声が降る。
はっと顔を上げた先で、彼は小さく首を傾げた。
見慣れたはずのその顔に、見慣れぬ表情を湛えながら。
「そうじゃない、けど」
「けど?」
「……、……」
黙ってしまった僕の頭に、細い細い指が触れる。
前髪を掬って、さらりと流して、もう一度掬って、軽く握った。
俯いたまま上目で見ると、困ったような笑みを浮かべる。
する、と離れる白い手指が、ほんの少しだけかなしかった。
「無理に言わなくてもいいよ」
でも、困ったことがあるなら言って?
俺はいつでも力になるから。
優しい言葉、あたたかな気持ち。
同時に湧き出る切ない想いを、どうしたらいいのか分からない。
ありがとう、と紡いだ言葉が気付かぬうちに震えていた。
それに気付いているんだろう、相手の顔が少し曇る。
その表情はそっくりなのに、違うと心が叫んでいた。
彼は彼であって、彼じゃない。
僕の知ってる「月白」じゃ、ない。
「あの、」
「うん?」
「……紅茶、もう少し貰っても、いい……?」
おずおずと差し出した空のカップ。
相手の紅い目が丸くなって、それからふわりと笑みに細められた。
それはそれは嬉しそうに。
「もちろん。喜んで」
そう言ってカップに触れる手も、顔の作りもそっくり同じ。
なのに、なのに、違うんだ。
けれどこれは本来あるべき形であって。
だから僕は、何も言えない。
「はい、どうぞ?」
「……ありがとう」
淹れてもらった甘い紅茶。一口含んで顔を顰める。
熱かった? と案じる声に、だいじょうぶ、と笑みを返して。
飲むには温度の高すぎるそれを両手のひらで包み込む。
じくじくと皮膚に沁み込む熱に、そっと奥歯を噛み締めた。
不意に視界が歪んだかと思うと、遠い未来に飛ばされた。
また神様の仕業かと、諦めと苛立ちに溜息ひとつ。
すぐ戻れると思っていた。
あの世界へ、帰れるだろうと。
「そんな風に笑うんだね」
「え?」
「……なんでもない」
僕には僕の世界があって、彼には彼の世界があった。
たまたま出会いが僕の世界だっただけ。
彼の世界で出会う可能性だって、あったんだ。
頭ではちゃんと理解してる。
ここは彼の世界だけれど、僕の知ってる「月白」はいない。
帰りたいけど、帰りたくない。
会いたいのに、会えているのに、会えない。
それを嘆くことは出来なくて、だから僕は口を噤む。
困ったような彼の微笑みは、「月白」にとてもよく似ていた。
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