視界は赤で満ちていた。
濃く淡く、その色合いを変えながら、勢いはただ増すばかり。
齎されたのは僅かな恐怖と、それを塗り潰す多大な安堵。
これでようやく、終われるんだ。
─焔─
誰も居ない場所に佇み、ぱちぱち爆ぜる音を聞く。
周囲を取り巻く赤い炎が服の裾を燃やし、髪を焼いて肌を焦がした。
ちりりと走る痛みを受けて、ほんの少しだけ顔を顰める。
痛覚すら、今は遠い。
黙したままで目を細め、ぐるりと辺りを見渡した。
通い慣れた場所。何度となく目にしてきた、
けれど懐かしみを覚えるまでには至らなかった場所。
玄冬の家だ。
彼の、彼との思い出の詰まった、場所だ。
そう思うだけで涙が出る。
熱と煙に晒されて、眼球が悲鳴を上げているだけかもしれなかったけど。
溢れ出る涙を拭おうと顔に押し当てた袖が焼け焦げていた。
鼻を突く焦げ臭さ。それすらももう気にはならない。
どこもかしこも、焼け爛れていたから。
記憶に残る家具も何も、炎に飲まれてしまっていたから。
時折走る痛みにだけ、死にかけた身体が反応する。
熱い、痛いと、それだけを、未だにしぶとく伝えるから。
だから、
「もう、いいよね……?」
彼は来なかった。
それで、いいんだ。
課せられた役目は果たされることはなくて、
僕は玄冬を、殺さずに済む。
だから、だから、
「僕はもう、要らないでしょう……?」
朦朧とする意識の中で、独り言のよに吐き出される音。
続く言葉は煙のために咳き込み噎せて飲み込まれた。
ぐらり、傾ぐ身体。
着衣を髪を、肌を焦がす炎と熱。
煙を吸って眩んだ思考と、霞む視界が滲んでは消える。
ああ、もう立っていることすら叶わない。
床にぶつかる衝撃は、不思議と痛みを伴わなかった。
それすら感じ取ることが出来なくなったのだろう。
気付けば頬に木造りの床。
皮膚が爛れて貼り付きそうなほど、熱い。
呼び声を、聞いた気がした。
応えようにも声は出ない。
そちらの様子を窺いたくても、もう顔を上げることすら叶わずに。
指先が一度ひくりと震えて、それきり動かすことは出来なくなった。
近付く声。炎の爆ぜる音。
どこからともなく、みしりと軋む嫌な音がして。
崩れる視界。燃え盛る炎。
呼ぶ声が、また遠くなった。
それでいいのだと薄く笑って、ゆるゆると両の瞼を閉ざす。
熱さも痛みも何もかも、もう感じ取ることは叶わない。
呼び声が、すぐ頭上から降り注いだことも知らず、
伏せられた瞼は微動だにしなかった。
火傷と煤とに彩られた、二本の腕が伸ばされる。
躊躇いもなく触れて、掴んで、引き寄せた腕は誰のものだったろう。
炎に包まれた家の梁が、耳障りな悲鳴と共に崩れ落ちた。
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