突き飛ばす手の感触が消えない。
繰り返される光景に、目を閉じることすら叶わなかった。
薄れる間もなく刻まれた記憶。

……どうして……!

音を伴わない叫び。雨に叩かれ滲む視界。
闇夜の黒と流れ出る緋と、青褪めていく白い顔。
伸ばした腕は無様にへし折れ、届く寸前ぱたりと落ちた。










─戻らない場所─










鼓膜が痛みを訴えるほどの濃密な静寂。
打ち破るのは微かな息遣いと硝子窓を叩く不躾な雨。
耳の奥で木霊して、怖気と眩暈を誘うよう。

「……どうして……」

明かりも点けずに佇む部屋は、どこもかしこも白尽くめ。
壁も床も天井も、家具調度品の類すらも。
僅かに色付いているものはあれど、暗がりの中では皆同じだった。

「どうして? 銀朱」

紡ぐ言葉に力はなく、ともすれば震えて聞こえるようで。
問いを投げても応えは返らず、ただ沈黙に呑まれて消えた。
相手は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返すだけ。

椅子を引き寄せるでもなく、崩れるように膝を折った。
吊った腕が鈍痛を訴え、床に打ち付けた膝がびりびりと痺れる。
真白いシーツに額を押し付け、銀朱、と再び名を呼んだ。

「なんで、俺なんか庇ったの」

背中を押す手の感触は、未だ生々しく残っている。
名を呼ばれて、突き飛ばされて、
振り返る間もなく、ドン、と嫌な音がした。





悲鳴さえ、あげられなかった。





アスファルトを転がって、腕が捩れて痛みが走る。
路肩に生えた雑草の緑に鮮やかな緋色が嫌に映えた。
血だと認識するよりも早く、首を捻って窺う先に、

「……どうして……」

腕から伸びる点滴の管。額に肩にと巻かれた包帯。
暗闇に慣れたこの眼には、白さが貫く痛みとなって。

「嘘ばっかり、吐いてきたのに」

本当のことなんて、数えるほどしかなかったのに。

「なんで助けたりしたの……?」

彩白とは違うって、気付いていたくせに。
悟られないようにって、必死になっていたくせに。
何も言わずに、黙り込んで。一人でずっと抱え込んで。





それなら、いっそ終わりにしてしまえば……?





包帯の巻かれた首筋に触れた。
指先を打つ拍動、確かな熱、息遣い。
触れられる距離にある事実が嬉しかった。

「……ごめん……」

傷の走る頬を撫ぜ、ぱさぱさになった髪に触れる。
光を受けると銀に輝く鈍色の髪。
撫ぜて、摘んで、梳いて、乱して。
名残惜しげに手指を退けた。





「さよなら、銀朱」





踵を返す。振り向かない。きっともう会うこともない。
込み上げてくる嗚咽を殺して、病室のドアをそっと閉じた。










ゆっくりと目を開ける。閉じた薄闇、窓叩く雨音。
自由の利かない身体、鈍い痛みを訴える四肢。

「    」

唇に乗せる名を聞いていない。
何一つ言わずに、別れだけを告げて。
こちらの意識が戻っていることも知らずに。

「……馬鹿が……」

どこの誰とも知らぬ相手だった。
何を思っての行動なのか、見当もつかない。
奥底に怯えを孕みながらも素知らぬ振りを通していた、
彩白に瓜二つの、人間。

違うと気付いて狼狽えた。
気付いていながら、知らぬ振り。
どこの誰かは解らず仕舞いで。





けれど、手放したくはなかった。





「くそッ……!」

握った拳がシーツを叩く。弾みで点滴が抜け落ちた。
走る痛みに顔を顰め、顔を覆うように手のひらを額へ。
名を呼ぶことすら叶わない。苛立ちばかりが嵩を増した。





嘘を重ね、偽りを重ね、失ったものは何だったろう。
事実を述べ、真実を告げれば、何も失わずに済んだだろうか。
二度の喪失に見舞われることも、なかったのだろうか。

欲しかったのは贖罪。
焦がれていたのは空いた隣を埋めるぬくもり。
多くを求めるつもりはなかった。
ただ失うことが怖かっただけ。





伝えたかった事実は、知りたかった名前は、
誰の唇が紡ぐのだろう。






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