歓ぶべきか、哀しむべきか。
それらの狭間で揺れながら、尚もこの手を離せずにいる。
壊れてしまった彼の心を、取り戻す気などないというのに。










―剣花―










扉の前に立つ度に、異様な緊張を強いられる。
向こう側は血の海かもしれない。もしくは開けた瞬間に斬り殺されるかもしれない。
そんな想像ばかりが浮かび、打ち消すことが常だった。

扉を叩く。二度、三度。
小さな応答に安堵して、その隔たりに手を掛けた。
然したる力を入れずとも、招き入れるかのように開かれる。

「具合はどうだ?」

扉を閉め、寝台に座した影に問う。
起き上がっている所を見るに、熱は下がったようだった。

「だいぶいいみたい。心配した?」
「それなりに、な」
「ふぅん、そっか」





くすくすと微かな笑みを零し、花白が小さく手招いた。
華奢な手指が、ひらり、ひらり。

「なんだ。どうした?」

歩み寄り、寝台の脇に膝をつく。
目線を合わせれば嬉しそうに、紅い眸を細めてみせた。
伸ばされる腕、髪に頬に、ひやりと冷たい手が触れる。

「寒いのか?」
「なんで? あったかいよ?」
「手が冷たい」
「そう?」

首筋にある小さな手を、捕らえ剥がして柔く握る。
冷たかった。細過ぎた。
力を込めれば折れてしまうと、そう思うほどに弱々しい手。

「おまえの体温が高過ぎるんだよ」
「熱を出して寝込んでいた奴が何を言う」





片手はその手を握ったまま、空いた手のひらで額に触れる。
春色の髪を左右に避けて、触れた肌が熱い。

「まだ熱があるな」
「……平気だよ」
「平気じゃない。ちゃんと寝ていろ」

細い肩を軽く押せば、渋々寝台に背をつけた。
毛布を喉まで引き上げ被せて、ゆっくり休めと背を向ける。





「ねえ」





呼び止める声には、半身を退いて。
どうかしたかと問いを投げた。
毛布の端から覗く手と、熱で上気した顔が見える。

「また、来てくれる?」
「……大人しくしていたらな」
「じゃあ、約束」

突き出された腕、小指を伸ばして。
こちらを見る目は真剣そのもの。
溜息ひとつ、指を絡めた。

「時間を作って、また来る」
「うん」
「それまでは、ちゃんと寝ていろよ」
「わかってる」





緩やかに揺らす脆い繋がり。唄はなくとも交わした約束。
指を解けば安堵の顔で、とろりと緋色を瞼の下へ。

「やくそくだからね」
「ああ、約束だ」
「やくそく、したからね」

頷きを返し、立ち上がる。
小さな寝息が微かに聞こえた。
その手を毛布の中に仕舞い、深い重い溜息を吐く。





何も覚えていないのだ。記憶は書き換えられてしまった。
玄冬討伐を拒んだことも、玄冬自身のことすら忘れて。
すり替えられた記憶の上に、今の花白は立っている。
玄冬を殺し、世界を救い、役目を果たしたと晴れやかに笑んだ。

「……花白」

壊れてしまった彼の心と、失われてしまった彼の者の記憶。
癒えることを、戻ることを、望んでやるべきなのだろうけれど。










忘れたままでいて欲しいと、願う自分に吐き気がした。











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