差し出された花と、囁かれた言葉と。
揺らぐことのない真っ直ぐな視線にたじろいだ。
これが初めてのことではないのに。望んだ言葉のはずなのに。
迷うことなど何もないと、そう思っていたはずのに。
─侘助椿─
名を呼ぶ声が遠く聞こえる。
緩慢な動作で顔を上げれば、そこには変わらず玄冬がいた。
ほんの少しだけ眉尻を下げて、どこか哀しそうな眸をして。
いつものように微笑ってみせて、なあに、と喉の奥で鳴く。
髪に挿した簪が、しゃらん、と軽い音をたてた。
「桜が咲いたらここを出ると、そう言っていたな」
「……うん」
こくりとひとつ頷けば、伸びてきた手が手首を掴む。
やんわりと、確りと。
痛くはないけれど逃げられないくらいの力加減で。
「あの木に花を咲かせることは叶わないが、」
上を向かせた手のひらに、そっとそれを押し付ける。
肘から指先くらいの長さの、細くしなやかな桜の枝を。
「これで、赦してくれないか?」
雪のちらつく初花月。余りに早過ぎる綻び桜。
どうして、と言葉を紡いだ。
手の中の花に目を落としたまま、まだ寒いのにと身を震わせて。
「一番に咲く桜だそうだ。どうしても、見せたくてな」
「……そう、なんだ。ありがとう」
ぎこちなく笑んで頬を寄せる。
触れた衣の感触が、ふわり漂う玄冬の香が、
凝った心に染み入るようで。
瞼を下ろし息を吐く。
薄い花弁に這わせた指が、しっとりとした冷たさを告げた。
「考えては、くれないか」
「……何を?」
解らないはずはないのだけれど、わざとらしく問い返す。
骨張った大きな手が肩に触れ、ぐいと押して距離を作った。
真正面から見据えられて、咄嗟に身じろぐことさえ出来ずに。
「俺と、共に来て欲しい」
早鐘を打つ胸を押さえて、古木の根元に膝をついた。
取り繕った言葉を吐いて無理矢理な笑顔で誤魔化して。
また来る、と言う彼の人の背を、見えなくなるまで目で追って。
苦しかった。哀しかった。
ずっとずっと、この日を待ち侘びていたはずなのに。
どうしてこんな風に思うのか、解らなくて。
溢れて零れる涙の雫を拭い取ることすら出来なかった。
「花白?」
名を呼ばれ、自分でも驚くくらいに肩が跳ねた。
恐る恐る振り返れば、大嫌いなアイツがいて。
「……泣いて、いるのか?」
戸惑ったような声が響く。
近付く足音に俯いて、袖で涙を強く拭った。
肩を、引かれる。痛みを覚えるほどの強さで。
仰いだ先には青空の双眸。
かちり、ぶつかる視線が痛い。
「身請けの、申し入れをされたそうだな」
問い掛けるでもなく、そう告げられる。
言葉を返すことも出来ずに、涙の零れる両目で睨んだ。
相手はどこか寂しそうな目で、けれど笑顔を浮かべて紡ぐ。
「良かったじゃないか」
「っ、」
乾いた音が、ひとつ。
思い切り打ち据えた右手が痛い。
じりじり、ひりひり、痺れるようで。
左の頬を赤く腫らして、それでも銀朱は怒鳴らなかった。
怒ったり、しなかった。
「幸せになれよ」
「っなんで、」
「幸せに、なってくれ」
吐き出す言葉を掻き消すように、強く念を押すように。
目を細め、僅かに口角を上向かせて、ぎこちない笑みを浮かべてみせる。
もう一度殴ってやろうと、固めた拳が小刻みに震えた。
「……なんで、そんなこと言うんだよ……!」
「花白、」
「おまえがっ! 僕を連れ出してくれるんじゃなかったのかよ……!」
餓鬼の時分に交わした約束。
泣きじゃくる子供を黙らせようと、咄嗟に吐いた些細な嘘。
枯れる手前の桜の古木に、縋り託した果敢ない願い。
この桜の木が花を咲かせたら、俺がここから出してやる。
そんな言葉に夢を見て。馬鹿みたいに、信じ切って。
戯れに交わした口約束だと、重々承知していたはずなのに。
なのにどうして、こんなのにも苦しいのか……。
「桜は咲かなかった。ただ、それだけだ」
「っ……!」
「幸せにな、花白」
背を向けられて、遠ざかる足音。
滲んだ視界ではもう見えない。
伸ばしかけた手が震える。
触れることは叶わずに、緩く手指を握るだけ。
実らぬ花が零れて落ちる。
それは宛ら遊女の涙。
ぽつりと静かに、首から落ちた。
初花月=一月、二月の別称。ここでは一月末の設定。
侘助椿=蕊が退化したために実を結ばない椿。
椿は首からぽろりと落ちます。山茶花は花弁をはらはら散らすのね。
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