ちゃぷ、と響いた水音を聞き、肩にひくりと震えが走る。
火照った体と霞む思考。脳裏に浮かぶのは「何故」ばかり。
そっと目だけで隣を見遣れば馴染んだ蒼は瞼の下に。
やや上気した頬以外、変わった様子は見当たらない。
なんだよ、なんて思った矢先、不意に銀朱が目を開く。
かちりとぶつかる視線と視線。落ちた沈黙がいやに重い。
耐えきれなくて視線を逃がし、瞼を下ろして息を吐いた。
―背に負う悲色―
ばたばたと窓を叩く雨音を耳に苛立ち紛れの溜息ひとつ。
こんなことなら来るんじゃなかった。なんて思っても今更だ。
屋敷に着くなり出迎えた灰名が眉を寄せていたのは記憶に新しい。
「二人ともずぶ濡れじゃないか! 風邪を引いてしまうよ」
言うが早いか僕たちの背を押しあれよと言う間に浴室へ、だ。
銀朱は最後まで自分は大丈夫だとささやかな抵抗をしていたけれど。
灰名が静かに名前を呼んだら口を噤んで大人しくなった。
普段口煩い幼馴染も自分の父親には弱いらしい。
「どうした?」
不意の問い掛けに、はっと小さく息を呑む。
声のした方に顔を向ければ銀朱の蒼とぶつかって。
なんでもない、と慌てて紡げば、そうかと返る柔い音。
逃げるように視線を外してぎゅっと目を閉じ下を向く。
ほんの束の間この目が映した揺れる水面と歪んだ輪郭。
色のない湯に浸され火照った銀朱の肌に浮き上がる赤。
ドキリ、とした。心臓が震えた。寒くもないのに背筋が冷える。
肩に胸に腹に手足に、仄かに色付き浮かんだ傷跡。
もう治ったものばかりだろうに肌にしぶとくへばりついた、それ。
ちらと銀朱を盗み見て、そろりと伸ばした腕の先。
ねえ、と震えを堪えた声に、銀朱がなんだと目を細めた。
湯の中を泳ぐ指の先、そっと触れた、走る傷跡。
驚いたらしく瞠られた蒼が僕を捕らえて離さない。
「いたく、ないの」
「……昔の傷だ。もう癒えた」
「、そう……」
なら、いいけど。
そう紡ぎながら手を引き戻し、湯船の底へと沈めてしまった。
ふやけ始めた手のひらに爪が食い込みじくりと痛む。
けれど力を抜くこともできずに、ほう、と息を吐くばかり。
おまえが気にすることじゃない。そう遠回しに言われた気がした。
触れてはいけないことだったのかと、そう考えたら苦しくなって。
軍人だから仕方がないと恐らく銀朱はそう言うのだろう。
身体にいくつも傷を受けて、癒えた端からまた血を流して。
愛するものを守るためだと背に庇う何かを振り返りもしない。
守られ庇われたその『何か』が、どんな思いでいるかも知らずに。
不意にザザッと湯が泣いて、銀朱が湯船から足を抜いた。
慌てて後を追うようにしたら温かな手が肩に置かれて。
きゅうっと眉を寄せる仕草は先程の灰名とよく似ていた。
「肩まで浸かっていなかっただろう」
「……うるさい。僕の勝手だろ」
「風邪を引きたいのか? まったく、」
ほら、しっかり浸かって温まれ。百数えるまで出るんじゃないぞ。
言うなり肩をぐいと押されてぱしゃんと湯が跳ね水面が歪む。
不満も露わに睨み付けても銀朱は毛ほども気に掛けない。
湿気た髪をくしゃりと乱され顔だけ温度が上がった気がした。
子供扱いするなよと吐き出しかけた言葉を呑んで。
ふいと顔を背け逸らして一度目を閉じゆるりと開く。
再び視界に入った背中にぎしりとどこかが軋むよう。
玄冬を殺せば戦はなくなる。
戦さえなくなれば、銀朱が傷を負うこともない……?
弾き出した答えは湯気に呑まれて、くらりと思考が視界が揺れる。
霞む世界に鮮やかな、傷ひとつない銀朱の背中。
記憶にあるのと違わぬそれに伸ばし掛けた手は湯に落ちた。
リクエスト内容
「お風呂」
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