取り出した鍵を差し込んで、回そうとした手が止まる。
開いてる、なんてぼんやり思い、そっと銀色を引き抜いた。
今日は早く帰る日だっけと記憶を探りノブを握って。
ただいま、と投げた僕の言葉に、返るはずの声はなかった。
─移り香─
しんと静まり返った部屋と、ぽつんと置かれた一足の靴。
帰ってきていることは確かなのに、その気配は限りなく薄かった。
後ろ手にドアの鍵を掛け、いないの、と再度声を投げる。
けれども変わらず返事はなくて、知らず眉間に皺が寄った。
ひたひたと短い廊下を進み、ひょいとリビングを覗き込んで。
ここにもいない、と逸らした視線は、見慣れた背中に縫い止められた。
ぴたりと閉じたガラス越し、ベランダの手摺に凭れ掛かって。
ゆらゆらと紫煙を纏いながら、その目はどこか遠くを見ていた。
手にした煙草を口元へ、すうと吸い込み燻らせて。
溜息のように吐き出した煙は、彼の姿を束の間隠す。
すぐに消えると知っているのに何故だか酷く胸が騒いだ。
意図せず握った両手を解いて、ひたりひたりと歩み寄る。
ガラス戸の目の前まで来ても、銀朱が気付いた様子はない。
飽きもせずに煙を吸い込み、ほう、と吐き出し目を細める。
その目が何を映しているのか、僕にはちっとも解らない。
解らないけど気に食わなくて、コツンと軽くガラスを叩いた。
はっとした風に肩を跳ねさせ、こちらを振り向く様が可笑しい。
僕の姿を映した蒼が瞠られ、慌てて煙草を背に隠す。
携帯灰皿で押し消す姿に、学生かよと苦笑が漏れた。
からからとガラス戸を引く音と、早かったなと言う声が重なる。
すっと入り込んだ柔い風。僅かに残った煙草のにおい。
ほんの少しだけ眉を寄せ、フンと小さく鼻を鳴らした。
「別に消さなくたっていいのに」
「……煩い」
バツの悪そうな顔をして、煙草くさい手で僕の頭を撫でる。
くしゃくしゃと髪を乱される度、先程の紫煙がふわと香った。
「そんなに美味しいものなの? それ」
半ば潰れたパッケージを見、次いで相手を見上げて投げる。
すると難しい顔をして、僕の視界から煙草を隠した。
「……吸うなよ?」
「なんでさ。自分は吸ってる癖に」
寄越せとばかりに腕を伸ばせば、その手を掴まれ阻まれる。
止せ、と投げられたその声に、吐息に滲む煙草のにおい。
目に沁みるような名残を嗅いで、けほ、と小さく咳き込んだ。
「花白、」
「ちょっと咳しただけだろ。平気だってば」
途端に少し慌てた風に、大丈夫かと案じる声。
そんな態度が鬱陶しくて、はなせよ、と腕を振り払う。
こほこほと咳の続く口元を覆った、その手は自分のものなのに。
「……、……」
「花白?」
黙りこくった僕を呼び、どうした、と顔を覗き込む。
なんでもない! と短く投げ付け、踵を返して部屋の中。
何なんだという呟きは、向けた背中で受け止め聞いて。
熱の灯った頬に手を当て、ほう、と密かに息を零した。
触れたのはほんの一瞬のはず。
だのに鼻先を掠めるにおいは、銀朱の吸っていた煙草のそれで。
手指からふわと漂う名残に何故だか心臓がきゅうと鳴いた。
リクエスト内容(意訳)
「現代同棲」
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