カツカツと高らかな足音を連れ、主たる少女が帰ってきた。
愛らしい顔を不機嫌に歪めて髪飾りを掴み毟り取る。
ぽいと無造作に放られたそれを意図せず受け止め溜息ひとつ。
お帰りなさいませと言葉を紡げば、鋭い一瞥に射抜かれた。










―願わくば、―










踵の高い靴を脱ぎ捨て、引き千切らんばかりに首飾りを外す。
荒っぽく捌かれる裾を見る度、布地が裂けるのではないかと気が気でなかった。

留め具を外す細い指にも苛立ちがはっきりと見て取れる。
何をそんなに怒っているのか、なんとなく想像はつくのだけれど。
顔に言葉に出したが最後、華奢な靴が凶器に変わる。

故に素知らぬ風を装い、お嬢様、と宥めるに留めた。
けれど彼女は変わらぬ態度で視線のひとつもくれはしない。
言葉の代わりに投げられたショールが視界をふわりと覆い隠した。





薄い布地に手を掛け退かすと忌々しげな舌打ちが。
背中に施された編み上げリボンの固い結び目に苦戦を強いられているらしい。
きゅっと細い眉を寄せ、むきになる少女の背に手を伸ばす。
微かな衣擦れだけを残して件の結び目は難なく解けた。

「……ありがと」
「いえ」

お役に立てたのならばと紡げば途端にきっと睨まれた。
銀朱と名を呼ぶ鈴の声にも怒りの棘が含まれている。

「次またそんな話し方したら二度と返事しないから」
「、花白さ」
「様付けもなし。何のためにみんな下がらせたと思ってんの」

じとりと上目にこちらを睨み、忘れたの、と尖る声。
暫しの逡巡、漏らした溜息。
伏せた瞼のその裏側で遠い記憶が煌めいた。





何年前のことだったろうか。
今より幾らか幼い少女に自分は確かこう問うた。
誕生日に何か欲しいものはあるか、と。

王族に次ぐ地位と権力、血筋を有する小さな子供。
無邪気さを許されているはずの年齢であるのに、嫌に大人びてしまった子供。

じっとこちらを見上げる眸には強い意志の光がある。
気の強さとは違う何か。
それが何なのか、その頃の俺には分からなかったけれど。





「なまえで呼んで」
「、なに」
「お嬢様とか姫様とか花白様とかじゃなくて、ちゃんと花白って呼んで」

ひらひらとした服の裾を小さな手指でぎゅっと握って。
今にも震えてしまいそうな声で、そんな願いを口にした。
そんなことでいいのか、と。
思わず紡いだ問い掛けに、子供はきっとこちらを睨む。

そんなことじゃない! と声高に、うっすらと涙すら浮かべた叫び。
引き結んだ唇を震わせて、頬を仄かに染めながら。
躊躇いながらもその名を呼ぶと、きょと、と一度瞬いて。
これでいいのかと問いを投げれば満足そうに頷いた。

以来、二人でいる時だけは名前で呼び合うことが暗黙の了解となった。
成長するに従って花白も自らの立場を受け入れるだろうと思っていた。
だのに、





「見合いの相手はどうだった?」
「どうもこうもないよ。大嫌い」
「……花白、」

吐き捨てるように紡がれた言葉に思わず渋い顔になる。
低く低く名を呼べば、眉間に皺寄せこちらを睨んだ。
苛々と髪を掻き上げながら、花白はひとつ溜息を吐く。

「こんな小娘相手にへこへこして、情けなくないのかな」

下心見え見えの猫撫で声で心にもない褒め言葉ばっかり並べてさ。
香水がきつ過ぎて折角の料理も台無しにしてくれるし。
二度と会うこともないだろうけど、あんなのと一緒になるなんて御免だね。

言いながらカリカリと爪を噛む。
美しく整えられた桜貝のような爪を。

「……止せ、花白」

その手に自らの手を重ね、口元からそっと引き剥がした。
嗜める意を込めて投げた視線を受けて白い頬に朱が走る。
わかってるよと顔を背けて、花白は唇を噛み締めた。





それの意図することが何なのか、分からないほど無知ではない。
勘違いであればどれだけ良いかと何度思ったことだろう。
触れていた手をそろりと離し、素知らぬふりで目を逸らす。

抱いてはならない感情だ。気付かぬ方がきっと良かった。
身分も立場も違い過ぎると痛いほど分かっているはずなのに。

「気に入る相手が見付かるといいな」

心にもない言葉を吐いて、上辺だけの笑みを浮かべる。
花白はきっと気付いているのだろう。
射殺さんばかりにこちらを睨み、ぎゅっと唇を引き結んだ。
物言いたげな顔をして、けれども口は開かぬままで。

いつか訪れるその時に彼女が幸せであるように。
抱えた想いに封をして、拳を握ってそう願った。










リクエスト内容(意訳)
「お嬢様と教育係」

紗由さまへ

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