こんにちは、と響いた声に、頁を繰る手がぴたりと止まる。
開け放たれた扉の向こうで春色の髪がふわりと揺れた。
こと、と小首を傾げてみせて、玄冬いないの? と投げられた問い。
出掛けたぞ、と小さく返し、走った痛みに目を閉じた。










─Luce─










すぐに戻ると思うから。お茶を飲みながら待つといい。
そう言いながら差し出した茶器は、今や花白専用のもので。
ありがとう、と微笑みながら、その縁にそっと唇を寄せた。

熱いぞと忠告を投げるより早く、花白の肩がびくっと跳ねて。
慌てて口元を手で押さえ、細い眉をきゅっと寄せた。

「大丈夫か?」
「う、ん。平気」

水でも飲むかと問いを投げれば、大丈夫だよと恥ずかしげに。
ぺ、と舌を出して見せ、赤いかな、なんて笑う。
そうして再び目を茶器に、今度はそうっと一口含んだ。

こくりと喉が上下して、ほ、と小さく息吐く音が。
白かった頬が仄かに染まり、ふにゃりと顔が綻んだ。
嬉しそうな顔をしてくれるから、こちらまで頬が緩んでしまう。

「おいしい」
「それはよかった」

茶器を両手で持つ様は、まるで小さな子供みたいで。
いくつも年上のはずなのに、なんだか愛らしく思えてしまう。





お茶淹れるの上手だね、とか、玄冬に教わってるの? とか。
そんな言葉のひとつひとつが何故だか胸にちくりと刺さる。
花白に悪気はないのだからと、気付かれないよう息を零して。
自分の茶器に手を伸ばし、そっと口まで運んだ時。

「ねぇ、くろと」
「っ、」

不意に呼ばれた名前に驚き、茶器の水面が大きく揺れる。
縁ぎりぎりまで押し寄せた波に慌てて器を持ち直した。

「大丈夫?」
「……ああ、」

ふたつの意味でどきどきしている心臓をどうにか宥め賺して。
どうにか表情を繕って、どうかしたかと言葉を投げた。
すると花白はにこりと笑って、お茶をこくりともう一口。

「僕の好きなお茶、覚えててくれたんだね」

ありがとう、と柔らかな声で。そうっと茶器を傾けながら。
こくんと喉を上下させ、おいしい、と淡く囁いた。





含んだお茶の甘い香りが花白の呼気にも移ったようで。
ほう、と小さく息を吐く度、仄かな香りが漂った。

顔に集まった小さな熱を気付かれないよう下を向く。
まだ熱いお茶を一口二口、無理矢理ぐっと飲み下して。
舌と喉とがちりちりするけど、それ以上に心臓が喧しい。

「こくろ」ではなく「くろと」と呼ばれた。
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにも嬉しいのか。
普段その音で呼ばれているのは花白の玄冬である大きいおれなのだけれど。

時々、ごく稀に、ちゃんと名前で呼んでくれる。
ふたりきりの時が多いのは、紛らわしいからだろうと思う。
大きいおれがいる時は「こくろ」と呼ばれているから、たぶん。

「花白、」
「うん? 何?」

こと、と小さく首を傾げて、なぁに? と返す声を聞いた。
呼んでみただけだ、なんて。そんなことを言えるはずもなく。

「……お代わり、要るか?」

誤魔化しに紡いだおれの言葉に、花白はきょとりと瞬いて。
うん、とひとつ頷きながら、空っぽの茶器を差し出した。











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