苦しい苦しい息が出来ない。
助けてと伸ばす腕の先にはただただ闇が蠢くばかり。
息を継ごうと口を開けど肺は塞がり膨らまない。

深い深い水底のような四肢の自由すら利かぬ場所。
恐ろしいはずのその暗闇が何故だか無性に恋しかった。










─汚れなき悪意─










衣服を剣を濡らし染める赤。
崩れ落ちた体から溢れるそれは石床に広がり染みを作る。
吐き出した息は反して白く、瞬く間もなく消えていった。

世界のためと称された行為。
唯一無二の尊い御身と言い聞かされて生きてきた。
周囲には上辺の笑みばかり満ちて、呼ばわる声は徒に甘い。

微動だにしない罪人を見、ゆるやかに深く息を吐いた。
気管に肺に染み付いた臭いが重い吐き気を齎すよう。
込み上げる熱を押し殺し、剣の赤を袖で拭った。

「終わったよ。後始末はよろしく」

控えの者にそう告げて、くるりと背を向け歩き出す。
赤く暗く冷たい部屋から一刻も早く離れたかった。
慣れたものだと思っていたのに、脆弱な神経が情けない。





一歩外へと踏み出した途端、朧な月に出迎えられる。
雲ひとつない晴れた夜空。だのにぽつりと一滴。
あめ、と呟き差し出す手のひら。
冷たい雫を受けた端からどろりと滲む赤、赤、赤。

コツ、と響いた誰かの足音。目を向き息を詰め振り返る。
青白い光に浮かぶ姿は見慣れた幼馴染のものだった。

「なんだ、来てたの」
「……顔色が悪い」
「暗いからそう見えるだけだよ。大丈夫だから」

暗に触れるなと牽制し、足早に立ち去ろうとした矢先。
ぐらり揺らいだ暗い視界と縺れよろけた両の足。
支えを求めて伸ばした腕に滲んだ赤は鮮やかに。

「っ救世主!」

咄嗟に伸ばされる逞しい腕。手首を取られ強く引かれた。
けれどその手を振り払い、ぱん、と手荒く叩き落とす。
驚きに瞠られた蒼色の目と宙に浮いたまま動かぬ腕と。
戸惑うように揺れた視線が痛くて痛くて目を逸らす。





「……ごめん、ちょっと気が立ってるみたいだ」

刹那と呼ぶには長過ぎる沈黙。打ち破ったのは震える声音。
上辺だけの薄い笑みと掠れた台詞を相手に向ける。
こちらの言葉を聞き取り拾って相手はぎこちなく首を振った。

気にするなという意味なのだろうと都合良く受け止めへらりと笑う。
もう行くね、とだけ口にして、踵を返し踏み出した足。
追い掛ける視線と物言いたげな気配が背に刺さるけれど知らぬふり。

善と悪とを混同するほど幼くはないと思っていた。
けれど強いられたその行為を、善であると人は言う。
世界を救うために必要なのだと柔い微笑と甘い声で。

受け入れることも拒むことも出来ず、ただゆらゆらと流される。
暗い暗い闇の淵へと息も継げずに喘ぎながら。
それを恐ろしく思うと同時、何故だか無性に恋しくて。
泣きながら笑い縋るよに、腕を伸ばしてしまいそうだった。





傍にいて欲しい誰かの腕は闇の中にはないのだけれど。





リクエスト内容(意訳)
「切ない隊救」

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