難しいことではないのだと預言師殿は言っていた。
たったひとつを取り去れば、世界は正しく廻るのだと。
儀式さえ終えれば彼が苦しむこともないのだと。
悲哀に満ちた笑みを湛え、美しい人はそう言った。










─偶像崇拝─










あれからどれだけの月日が流れたのか。
記憶を辿る気にはなれず、そんな考えは追い遣った。
思考の隅、忘却の彼方、意識の枠の外側へ。
そんなことを考えている暇など今はないのだから。
やるべきことは、別にある。

「儀式が終われば春は来るんだよね」

数歩離れて佇む相手はこちらを見もせずにそう言った。
疑問とも独り言とも取れる言葉に、俺は口を閉ざしたまま。
微かに頷きを返しはしたが、救世主が気付いた素振りはない。

赤い視線のその先に、固く閉ざされた窓がある。
薄い硝子を隔てた先には広場に面したバルコニーが。
そこに集った大勢の民が今か今かと待ち侘びている。

「春が来たら、」

と、言葉を切り、続くはずの音を飲み込んだ。
時間だね、と小さく呟き、身の丈以上の高さを誇る澄んだ硝子戸に手を掛ける。
息を呑む音を、聞いた気がした。





押し開かれた硝子戸の先へ、一歩、また一歩と進み出る背中。
その度に高く歓声が上がる。口々に何事か叫んでいる。
広場に集った民衆達の、ざわめき、囁き、息遣い。
目眩を覚えるようだった。

救世主様! 救世主様だ! 春を告げる御子様だ!
どうか春を! 我等に春を!
ぬくもりをお与え下さい、救世主様!

何を話すわけでもない。何を授けるわけでもない。
ただ姿を見せ、微笑んで、二三度その手を振るだけだ。
それだけで民衆は狂喜する。
稀なる容姿に感嘆し、中には涙する者もいる。
春告げの御子を一目見んとし、誰もが彼を仰ぎ見る。





どれだけの時間、そうしていただろう。
くるりと背を向け戻った救世主は硝子戸を閉めるやその場に崩れた。
慌てて支えた腕に縋り、青褪めた顔で薄く笑む。
大丈夫だからと告げられたとて鵜呑みに出来るはずもない。

「儀式が、終われば」
「救世主……?」
「俺がちゃんと終わらせたら、こんなことしなくて済むんだよね……?」

無理に笑って見せなくても。大勢の人の前に立たなくても。
救世主じゃなくなっても、いいんだよね……?

吐息ばかりの微かな声で問いを投げられ息を呑む。
ほんの短いあの時間、どれだけの想いに晒されたのか。
あの場に集った民一人一人の、声を、願いを、ひとり抱えて。

「……ああ」

当然だろう、と低く返す。
それしか俺には出来なかった。
支えてやるのが精一杯だと、痛いほどに知っている。





こちらを見詰め向けられた笑みは、とても柔らかなものだった。
もう大丈夫と身体が離れ、自らの足でしゃんと立つ。
多少ふらついてはいるものの、だいぶ回復したようだった。

「儀式の日取りは?」
「三日後、太陽が中天に差し掛かる頃に」

するりと伸びた白い手が、腰に佩いた剣に触れる。
柄に嵌め込まれた宝玉を撫ぜ、深い呼吸を繰り返した。
伏せられていた両の瞼が震えるようにゆるりと開かれ、隠されていた赤が覗く。
宝玉の色を映したかのような、鮮明なまでの朱赤の眸。

「解った」

すっと脇をすり抜けて、軍靴の足音が遠ざかる。
それが不意に立ち止まり、ねえ、と呼ばれ、振り返った。
こちらを見据える赤い目が僅かに揺らいでいるのが見える。
ああ泣きそうだと思う間もなく、薄い唇から微かな問い。





「ねえ隊長。俺、ちゃんと笑えてる?」

緩やかに首を傾げられ、咄嗟に言葉が出てこなかった。
笑えているかと問われれば、あたりまえだと返せるはず。
けれどそれは、今にも涙を零しそうな、あまりに不安定な表情だった。
緩慢な動作で頷き返せば、相手はふわりと笑みを広げる。
先程よりも泣きそうな、かなしそうな微笑を。

「そう。よかった」

カツ、と床を叩く足音。徐々に遠くなりゆく気配。
かつて見た笑顔とは程遠い、泣きそうな表情が脳裏に浮かぶ。
早く儀式が終わればいい。春の有無など知ったことか。
到底口には出来ぬ思いを腹の底で燻らせる。










儀式さえ終われば帰ってくる。
屈託のない微笑みを浮かべて幼馴染が帰ってくる。
そう思い込み信じる以外の道を、俺は知らない。










リクエスト内容(意訳)
「玄冬を殺すことを受け入れた頃の救世主と周囲の人々」

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