ほんの些細なことだった。
普段ならば気にも留めない、他愛ない音の羅列に過ぎないのに。
何気なく紡がれたその声は研ぎ澄まされた刃物のように思考をさくりと切り裂いた。
束の間呼吸を奪われて、ぐっと言葉を飲み下す。
そうする以外の術を持たず、それ以外の何も出来なかった。










―平穏な日々、一点の染み―










本当によく出来た男だと思う。
黙々と書類を捌いているのは自分と良く似た容姿の青年。
救世主の幼馴染であり、俺の遠い子孫でもある優秀な若者だ。

子供はおろか結婚すらしていないと言うのに随分な話だと思いはするが、目の前の事実に変わりはない。
どんな仕事もそつなくこなし、子供の面倒見も良い。
第三兵団の隊長であっただけあって剣の腕も立つ。
今は俺の補佐として働いて貰っているのだが勿体ないくらいだと常々思う。

「今日は随分と静かだな」
「そうですね。月白が席を外しているからでしょう」
「……違いない」

ふ、と微かな笑みを零し、手にした判を書類の上へ。
朱印の押された一枚を処理済みの山へ重ね上げ、次なる一枚へ手を伸ばす。
と、





「……来たな」
「ええ、来ましたね」

重なる溜息、絡む視線。
彼はすっと席を立ち、扉へ向かって二歩三歩。
取っ手を握り頃合いを見つつ、扉の向こうへ意識を投げる。
ばたばたと近付く足音が扉の前へ差し掛かると同時、彼は取っ手を勢い良く引いた。

「っわ、と……!?」

右手を前へと伸ばした姿勢で転がり込んでくる救世主。
べしゃりと転んだその傍らでは幼馴染が呆れ顔だ。

「何をしている」
「……床と、仲良く……」
「馬鹿を言っていないでさっさと立て。銀朱様のご迷惑になる」

幼馴染の心配はなしかよ、と文句をぶちぶち言いながら救世主は立ち上がる。
ふらりとよろけた腕を支え、しっかりしろと銀閃は言った。
ごくごく軽い言い争いを離れた位置で眺めながら、ふ、と小さく息を吐く。

年齢の割に落ち着いているとは言え、こうして見るとまだ若いな、と。
普段ならば子供っぽく見える救世主の影響でずっと大人びているというのに。
幼馴染との遣り取りの中では歳相応の幼さが見える。





「そら、暇なんだろう? この書類を届けてきてくれ」
「ええー俺ただの通りすがりなんだけど」
「通りすがりがご丁寧にも扉を開けて入ってきたのか?」

じっとりと睨まれ、たじろいで、救世主は視線を泳がせた。
さすがは幼馴染と言うべきだろうか、救世主の扱いに恐ろしく長けている。

「……開けたのはそっちじゃ」
「何だ?」
「なんでもないですー!」

頼まれた書類を引ったくり、救世主はくるりと背を向けた。
扉を閉め切る寸前に、ひょい、と顔を覗かせて。

「それじゃあ行ってくるからさ、そいつのことヨロシクね。ターイチョ」

さっくり刺さった些細な一言。
閉じた扉の向こうを見遣り、知らず止めていた息を吐く。
きつく握った拳を解いて軋む指をそろりと伸ばした。










やはり名で呼ぼうとはしないんだな。











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