ああ、この位置からでは顔が見えない。
けれどそんなことは気にも掛けなかった。
合わせた背中から伝わる熱が、重なる鼓動があればいい。
目に見えるものすら疑わねばならない世界の中で、そのふたつだけは信じられた。

ずっと、信じていたかった。










─雪原郷─










月も星もない夜だった。
自らの存在を周囲に知らしめるだけの松明など、端から持つ気は更々なく。
腰に剣を佩き、裾の擦り切れた外套を纏い、足音を殺して抜け出した。

深く積もった雪に足が沈む。
吐き出した息が白く濁るのを横目で見遣り首を竦めた。
雪こそ止んでいるものの吹き付ける風は切るように冷たい。
約束の場所へと辿り着き、悴む手指を擦り合わせた。

「待たせたか?」
「……少しな」

さく、と雪を踏み締める音。
緩やかに振り向いた視線の先に凛と佇む黒い影。
吐き出された白い息が風に流され消えていく。
薄い笑みを浮かべながら、一歩また一歩と近付いた。





目前に在る宵闇の双眸。僅かに和らいだその目元。
頭に積もった雪を払ってくれる手が、酷く優しく感じられる。
もう半歩だけ距離を詰め、相手の肩に額をぶつけた。
トン、と軽く、挨拶程度に。

「今日は暗いな」
「ああ。うっかり道を間違いかけたよ」
「……」
「冗談だって」

口を噤んだ相手に向かって、間に受けるなよと笑い掛ける。
バツの悪そうな渋面を作りフイと視線を彼方へ逸らして、苦々しげに息を吐いた。

「おまえならやりかねない」
「そこまで抜けちゃあいないさ」
「は、どうだかな」

互いに悪態を吐き出して、示し合わせたかのように笑う。
くつくつと肩を震わせながら手近な場所へ腰を下ろした。
寒さを凌ぐために身を寄せ合って、これと言って言葉を交わすこともない。
ただ傍に在るだけだった。それだけで、充分だった。





「なあ」
「うん?」
「……いや、なんでもない」
「そうか」

落ちた沈黙に耐えかねて、くるりと身体を反転させる。
相手の背中に身を預け、伸びをするように体重を掛けた。
自然と前のめりになる相手の口から、ぐう、とも、むう、ともつかぬ声。
止せとも退けとも言わないものだから、ついつい調子に乗ってしまった。

気付くと俺は空を仰いでいて、背中で潰した相手の呼吸が少しばかり苦しそうで。
ころりと横に転げて落ちて、膝に顔を押し付ける体勢でいた相手を見る。
細められた目が、寄せられた眉が、不機嫌そうな色をしていた。

「怒った?」

答えはない。
眉間の皺が一層増えて、口がへの字に曲げられる。
調子に乗り過ぎてしまったか、と脳裏でちらりと思ったときだ。





「……おい」
「なんだよ」
「身体が冷える」

雪に半身を横たえていたのを目敏く見付けてそう言った。
確かに少し寒かったんだ。右半身だけ鳥肌が立ってる。
伸ばした左腕を取られ握られ、軽く引かれて身を起こした。
外套に付いた雪を払い、再び相手の隣に並ぶ。

やはり言葉は交わさない。
互いの呼吸が白く濁るのを、ただぼんやりと目に映すだけ。

やがて空が白み始めると、どちらともなく立ち上がる。
何を言うでもなく視線を絡め、に、と口端を吊り上げた。





無事で、とも、また会おう、とも言わずに。
ただ笑みだけを相手に向けて。
同時にくるりと踵を返して元来た道を帰っていく。
それだけだった。それだけでも、満たされた。

違えられるかもしれない約束で相手を縛る気は更々ない。
気が向いたら、あの場所で。
そんな不確かなもので、俺たちは確かに生きていた。










生きて、会って、触れて、笑った。
それだけでもう充分だろう?











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