ばくばくと跳ねる心臓の音が直接頭に響くみたいだ。
いつもよりずっと近い距離に思わず呼吸を止めてしまう。
名を呼ぶ声と薄く開いた唇、僕を映す藍色の目。
頬へと伸びる彼の手に、知らずびくりと震えが走った。










─いとし君へ─










他愛ない話をしていたはずだった。
今日の天気だとか、最近あったこととか、今日の夕飯なんだろう、とか。
不意に途切れた会話の糸、けれど沈黙が痛くはなくて。
むしろ心に優しいようだと、こっそり思っていたというのに。

名前を呼ばれて、顔を上げて。
先程までとは打って変わった真剣な顔に戸惑った。
真っ直ぐに向けられた藍色の目、少しだけ寄せられた眉間の皺。
花白、と紡ぐ彼の声には、どこか苦しげな色が宿って。

「くろ、と……?」

どうしたの、とは吐き出せず、ただただ彼の名を呼ぶばかり。
じわじわと迫る言い知れぬ感覚に僕は恐れを抱いていた。





縮められた距離の近さに惑い、後退ろうにも背には壁。
す、と伸ばされた彼の手が、触れる手前でピタリと止まる。
知らず震えた僕の目に、悲しそうな顔が映った。

「……すまん」
「え、あ……」
「もう、しないから」

寂しそうに悲しそうに、苦しそうにそう言って。
下手くそな笑顔を必死で浮かべて、一歩二歩と離れてしまう。
暴れ回る心臓と、うまく動かないこの頭と。
どうしようどうしようと渦巻くばかりで考えなんて纏まらなくて。

咄嗟に伸ばした右手の中に、はっしと彼の手を握る。
驚きに大きく瞠られたのは、彼と僕の二対の目。
ほとんど同時に息を呑み、それきりどちらも動けない。





「はな、しろ?」
「っ、」
「その……手を……」

離してくれないか、と。
たどたどしく紡がれた一言が、身体の奥にさくりと刺さる。
悲鳴を上げるほどではないけど、じりじりちくちく痛かった。
痛くて痛くて苦しくて、視界にじわりと涙が滲む。

「……や、だ」
「花白?」
「いっちゃ、やだ……っ、いかないで……!」

力の加減も分からずに、手の中の指を強く握った。
縋るように相手の目を見て、泣き出さないよう唇を噛む。
きれいな藍色がゆらゆら揺れて、戸惑う様が痛いくらい。

どうしたいのかなんて自分でも分からない。
ただただ怖くて寂しくて、子供みたいに駄々を捏ねた。
何が怖いのか分からないけど置いて行かれるのは嫌だったから。
だから、彼の手を握る。一本二本の指だけ握って、離すまいと必死になって。





「……いいのか、花白」
「なに、が」
「こうして、触れても。嫌じゃないのか?」

自由な左手がゆるゆると、僕の方へ伸ばされる。
恐る恐るといった様子で、指先でそうっと頬を撫ぜた。
そのくすぐったさに目を細め、ほんの少しだけ身じろいで。
けれど視線は外さずに、こくりとひとつ頷いた。

「嫌じゃ、ないよ」
「……これは?」
「平気」
「それじゃあ、これは?」

指先だけの接触は手のひら全部を使ったそれに。
頬を包まれ肩を抱かれて、そのひとつひとつに頷き返す。
怖くないと言ったら嘘になるけど、玄冬の手のひらは優しかったから。
だから真っ直ぐ彼を見て、だいじょうぶだと繰り返す。





「……ねえ、」
「うん?」
「……、……僕も、触っていい……?」

躊躇いながら投げた問いに、彼は両目を見開いた。
けれどすぐにその目を細め、勿論だ、とやさしく笑う。

おずおず伸ばした指の先、そうっとなぞった彼の頬。
くすぐったそうに震える度に、僕の手は止まってしまうけど。
嫌がる素振りは欠片も見せず、彼は黙って僕を見てた。
真っ直ぐに、けど柔らかに。心があったかくなるような目で。

顎の先から指を離して、ありがとう、と小さく紡ぐ。
ゆるりと首が横に振られて真っ直ぐな髪がさらりと流れた。





低く優しく名を呼ばれ、背の高い彼を仰ぎ見る。
肩に置かれた両の手が、柔く僕を引き寄せた。
額に落ちた唇が、軽い音を残して離れる。
真っ赤な顔を自覚しながら、けれど僕は動かない。

僅かに迷う彼の目を見、それからゆっくり瞼を下ろす。
刹那の間の後、落とされた口吻け。
触れた箇所から溢れる想いが頬を心を仄かに染めた。






リクエスト内容(意訳)
「恋人になる瞬間」

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