ちょっとしたことで喧嘩して、土砂降りの中へ飛び出した。
傘も財布も置いてきたことに気が付いて、けれど戻る気にもなれなくて。
ムキになって、意地を張って、ずぶ濡れのまま歩き続ける。
行く宛てなんてなかったけれど、立ち止まってはいられなかった。
─呼称─
コトンと置かれたマグカップからは甘い匂いが立ち昇る。
上目に窺う彼の顔は、どことなく不機嫌なように見えた。
しゅんと俯く僕の頭に、ぽふ、と軽い何かが触れる。
見上げた先に落ちた影、困ったように笑う顔。
飲めと促す声は優しく、こくりとひとつ頷いた。
両手でマグを包み込み、そっと持ち上げ唇を寄せる。
舌に触れたココアの味と、その温かさに息を吐いた。
ねえ先生、と呼び掛けたら、先生は止せと顔を顰める。
濡れた髪にタオルを被せて、落ちる雫を拭いながら。
いつもと違う服装に心臓がどきりと跳ねた気がした。
「じゃあ、なんて呼べばいいの」
「普通に名前で呼べばいいだろう?」
普通に、なんて、簡単に言うけれど。
それがどんなに難しいことか、きっと彼は知らないんだ。
赤くなった顔を隠すよに、下を向いてココアを啜る。
過ぎた熱さが舌を焼き、慌ててマグを顔から離した。
「花白、平気か?」
「っ、……う、ん。だいじょうぶ」
不意を突くように呼ばれた名前と、案じるような柔い声音と。
咳き込み噎せた涙目で、大丈夫だからと繰り返す。
「……眼鏡、」
「うん?」
「今日は眼鏡、してないんだね」
「ああ、あれは遠視用だからな。今は掛けなくても不自由しない」
言いながらケータイを手に取って、何やらボタンを操作する。
微かに聞こえる呼び出し音と、遠く誰かの話す声。
立ち上がり、少し待ってろと言い置いて、扉の向こうへ消えてしまう。
受け答えする声音から、相手は親しい友人なのだろうと思った。
けれど何だか様子がおかしい。
電話越しの機械的な声が、妙に尖って聞こえるから。
それに、どこか聞いたことのあるような。そんな気が、して。
「迎え? いや、必要ないだろう。……ああ、解ってる。心配するな」
誰と話しているんだろう。そう思っていたらケータイが震えた。
びくりと肩が跳ねたのは、驚いたからだけじゃない。
ディスプレイに表示された流れる名前は、喧嘩の相手のものだったから。
出ようか出まいか悩む間に、ケータイの震えは治まって。
起伏の少ない留守電の音声が自動ですらすらと流れ始める。
メッセージが吹き込まれることはなく、ブツリと電話は切れてしまった。
それがなんだか寂しくて、ほんの少しだけ後悔した。
「家の人からだったんじゃないのか?」
不意の声に驚いて、ケータイが手から転げ落ちる。
足元のそれを拾い上げ、ほら、と差し出す大きな手。
受け取って、ありがとうを言い、それきり逸らした両の視線。
頭上で零れた溜息に、大袈裟なくらいに肩が跳ねた。
呆れられたんじゃないかって、追い出されるんじゃないかって。
そんな思いばかりが頭を駆けて、俯いた顔を上げられない。
「家に連絡をちゃんと入れたら、今夜は泊っていってもいいぞ」
聞き間違いかと思うような言葉に、ばっと仰いだ彼の顔。
困ったような笑みを浮かべて、どうするんだと問いを重ねた。
手の中のケータイには着信アリの文字。
相手とは喧嘩の真っ最中で、だけど少しだけ苦しくて。
「……何なら、俺が掛けてやろうか?」
「っ、いい! 自分で出来る……よ、」
言ってしまったら引き下がることは出来ず、ケータイを握って小さく唸った。
そうしている間にチカチカ光り、再び震えて着信を告げる。
息を飲み、視線を泳がせ、縋るように彼を見上げた。
けれど何も言ってはくれず、ただただ微笑むばっかりで。
震える親指、押したのは通話ボタン。
耳元に押し当てたケータイは沈黙を保ったままだった。
繋がっているのかと疑いながら、躊躇い躊躇い紡いだ声。
「……、……もしもし、」
途端に返った相手の声。機械越しの、掠れた音。
どこにいるのか、とか、何をしているんだ、とか。
そんな言葉ばっかりで。
だけど何だかほっとして、するりと紡いだ「ごめん」の一言。
はっと息を飲み込んだのは、どうやら相手も一緒みたいで。
一瞬落ちた沈黙の後、こっちこそ、と不明瞭に。
「え、いま? えっと、その、先生の家に、っあ」
どこにいるのかと尋ねられ、答えようとした矢先。
ひょいとケータイを取り上げられて、それきり会話は途切れてしまった。
彼が一言話しただけで、電話越しの声が色を変える。
不機嫌を前面に押し出したような、とげとげとした響きのものへ。
「……知り合い、なの……?」
あの馬鹿兄貴と。
そう尋ねたら苦笑して、まあな、と曖昧に頷いて。
途端に機械の向こうから、違う! と叫ぶ声が聞こえた。
しばらくして返されたケータイからは、疲れたような兄の声。
何かあったらすぐ帰って来いと、訳の解らない忠告をして。
通話を終えてケータイを閉じ、ほう、と小さく息を吐く。
それからくるりと振り向いて、背筋を伸ばし姿勢を正した。
「……先生、」
「玄冬だ」
「……、……くろ、と」
たどたどしく紡いだ相手の名前。
なんだ、と返される声が優しい。
ありがとうを紡ぐだけなのに、何度も何度も深呼吸して。
やっと言えたその一言に、彼は柔らかく微笑んだ。
髪をくしゃりと掻き混ぜる手に、顔が真っ赤に染まってく。
飛び出しそうな心臓を必死になって抑え込んで、小さな声で彼の名を呼んだ。
新任教師である彼と、馬鹿兄貴や口煩い幼馴染。
実は面識があるのだと知らされるのは、それから数日経ってからのことだった。
リクエスト内容(意訳)
「教師と生徒。甘々」
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