羊皮紙を走るペンの音、ペン先をインクに浸す音。
耳が拾う音の大半は僕が発するものだった。
けれど時折微かに混じる本のページを繰り捲る音。
それにこっそり聞き耳を立てて、気付かれないよう笑みを浮かべた。










─学問の薦め─










ペンの音が止まったと気付いて彼は本から顔を上げる。
どうかしたかと問う声を受け、何でもないよと澄まして答えた。
そうか、と呟き頷いて、再び本に目を落とす。
はらりとページを繰る音を聞き、僕も再びペンを握った。

「……今日は、」
「え?」

ぽつりと零れた声を拾って、手を止め視線を玄冬に投げる。
思わず漏らした呟きだったのか、彼はバツの悪そうな顔をしていた。
手にした本のページを遊ばせ、今日は、と再度口にする。

「随分と真面目にやっているんだな」
「そうかな?」
「普段なら城中を逃げ回っている時間帯だ」

調子が狂うとでも言いたげに、眉間に皺を寄せてみせて。
不機嫌そうな、複雑そうな、困ったような顔をする。
笑い出したいのを堪えて羊皮紙にペンを走らせた。
ペン先が紙を引っ掻く音が鼓膜をやんわり刺激する。





会話がふっつり途切れてから、どれくらいの時間が経っただろう。
彼は相変わらず本を読んでいるようだけど時折こっちを見ているみたい。
ちらちらと投げられる視線を感じて、けれど顔は上げずにいた。
僕が机に向かっていると安心したように息を吐く。
けれどどこか物言いたげに、唇を薄く開いたりもして。

「っよし、終わった!」

言うが早いかペンを投げ出し、両腕を頭上にウンと伸ばした。
転げたペンからインクが零れて蚯蚓ののたくったような跡を残す。
逸らせた背骨が、傾けた首が、ぽきぽきと硬い音をたてた。

机の端々に散らした多くの紙を、揃え整え束にして。
本を閉じて様子を見ている玄冬の元へと持って行く。
はい、と手にしたそれを差し出して、にっこりと笑みを向けながら。





「今日の分の課題、終わったよ」

言えば驚きに目を見開いて、受け取った紙をはらはらと繰る。
検め終えた課題の山から僕の顔へと青色が移り、ふ、と小さな溜息が。
瞬く間もなく彼の表情が変わる。
驚きに満ちた丸い目が、やわらかな笑みの形へと。

「よく頑張ったな、王子」

微笑った顔が大好きで、優しい声が愛しいけれど。
褒めて欲しい訳じゃないんだ。いま欲しいのは、もっと、別の。

「……違う」
「うん?」

不思議そうに首を傾げて、黒い黒い髪が流れる。
見上げなければならない位置の、深い青色をひたと見据えた。
吸い込まれそうな両の目を、どこまでも穏やかな水底の色を。





「王子じゃなくて、名前で呼んで、って。言ったよね?」

少しだけ、ほんの、少し、拗ねたような口調になった。
それを彼に知られたくなくて、気付かれているだろうって、解っているけど。
す、と逸らした視線の先には彼がずっと持っていた本。
古い古いものなんだろう。
表紙に記された題字が掠れて、何が書いてあったのか解らなくなってしまっていた。

「よく頑張った。偉いぞ、花白」

名前を呼ばれて、顔を上げた。目に映るのは優しい笑顔。
やわらかな声が鼓膜を擽り、照れくさくなって小さく笑った。
彼の腕から書類を取り上げ、本と一緒に机に置いて。
ねえ、と彼を見上げて囁く。目一杯の笑みを浮かべて。





「玄冬の淹れたお茶が飲みたいな」

休憩なしでやってたから、さすがにちょっと疲れちゃったよ。

言えば小さく笑みを零して、それもそうだと目を細める。
茶請けの菓子は何が良いかと問いを投げられ僕は答えた。

君の作った甘いお菓子を!
それ以外のものはお断り、ってね。











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