名前を呼ばない。呼ばれない。
誰が決めたわけでもないのに、いつの間にかそうなっていた。
名前を知らない訳ではない。相手も知らぬ筈がない。

それでも口にしないのは意地の張り合いに過ぎないのか。
それとも……










―名前―










長椅子にだらりと身を預け、腹這いになった相手を見遣る。
ぱたりぱたりと足を揺らして、まるで日溜まりに寝そべる猫のようだ。
猫と呼ぶには少しばかり扱いが面倒で大き過ぎる気もするが。

「……おい」
「なぁにー?」
「何か、用か」

仕事はとうに終えたはず。
ならばここに居座る理由もない。
どこへなりとも出掛けてくれば良いものを。

ぱたり、ぱたり、交互に揺れる。
肘掛けを支えに頬杖をつき、淡い笑みを浮かべながら。





「用がなきゃ、ここにいちゃいけないの?」

つれないなぁタイチョーは。
俺はこんなにタイチョーのことが好きなのに。

くすくすと肩を震わせながら細めた緋色が俺を見る。
顔は笑っているというのに、受ける印象は物悲しい。





「……月白」

名前を呼んだ。
滅多に口にすることのない彼の名を。
「救世主」ではなく「月白」と。

相手は僅かに顎を浮かせ、心持ち表情を硬くした。
が、すぐさまいつもの笑みを貼り付け、どうしたの? と首を傾げる。

「……いや、」

首を左右に二三度振り、なんでもない、と言葉を返した。
訝しむ相手から視線を外し、手元の書類に再び落とす。
字面を辿るその最中、ぽつりと零れる声を聞いた。





「ぎん、しゅ」





たどたどしくも紡がれた音は紛れもなく俺の名の色で。
ふ、と小さく息を吐き、視線を再度相手へ向ける。
書類を繰る手も自然と止まった。

「……なんだ」
「呼んでみただけ」

透き通る笑み、にこりと淡く。
糸のように細められた目からは真意を窺い知ることは出来ない。
そうか、と一言短く返し、ふいと視線を相手から外した。










書類に綴られた文字を追うも、内容が頭に入ってこない。
ぱたり、ぱたりと足を遊ばせ、救世主はゆるりと目を閉じた。











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