ふわりと漂うにおいの正体に本当はずっと気付いていた。
気付いていながら何も言えずに、ぐっと唇を噛み締める。
笑顔の下には涙を隠し、長い袖には傷を隠して。
嫌でも嗅ぎ取るそのにおいは、痛いくらいの赤色をしていた。










─たかが一歩─










ノックもなしに開けた扉、びくりと震える気配がひとつ。
室内に踏み込み扉を閉めて、後ろ手でカチンと錠を下ろした。
噎せ返るような赤のにおい。床に広がる水溜り。
暗闇に沈む室内では黒い水にしか見えないけれど、水でないことは明らかだった。

驚いているのか狼狽えているのか、泣きそうな目が大きく揺れる。
こちらが一歩近付く度に、じりりじりりと後ずさって。
その背が壁にぶつかり止る。
逃げ場を失い震える腕を有無を言わさず捕まえた。

「っ、」

取られた腕を取り戻そうと、ぐ、と力が込められる。
逃げられないよう腕を引いたら相手の身体が小さく跳ねた。





「……見せてみろ」

手首を掴み袖を捲り、現れた傷に息を飲む。
ぱっくりと開いた傷口からは絶えず赤が染み出ていた。
鼓動にあわせて溢れ流れて、指の先からぽたぽたと。

ねえ、と控えめに呼び掛けられて、緩慢な動作で顔を上げる。
捕まれた腕を引き戻すように、く、と込められる力を感じた。

「手、汚れちゃうよ。離して」
「っおまえ……!」

これを自分でやったのか?
自分を傷付けて、楽しいのか?
襟首掴んで問い質したいのに、言葉が痞えて出てこない。
悲しそうに笑う三日月が、すう、と細く眇められた。





「はなして」
「嫌だ」
「どうして?」
「……嫌だから、だ」

傷に直接手のひらを押し当て、溢れ出る赤を堰き止める。
痛みにくしゃりと顰められた顔は、わざと視界から追い出して。
ぽつりぽつりと落ちる雫が一秒も早く止まるように。

「……どうして……」
「何が」
「どうして何も訊かないの」

視線は手元に落としたままで、ほんの微かな問いが零れた。
ぽつりと落ちる赤い雫、固まり始めた小さな血溜まり。
滴る赤があまりに鮮やかで、瞼を閉じて息を吐く。





「訊いて欲しいのか?」
「……よく、わかんない、な……」
「なら訊かない」
「……そう」

やさしいんだね、と彼は言った。
赤く染まった俺の手を見て、小さな声で「ごめんね」とも。

「やさしくなんか、ない」

気付いていながら何も言わずに、止めることすら、きっと出来ない。
理由を訊いて、話を聞いて、ちゃんと受け止めてやれたなら。
こんな悲しい表情で、こんな痛くて苦しいことをさせなくても済むかもしれないのに。










その一歩が、どうしても踏み出せない。











一覧 | 目録 |